源平合戦が行われた1180年から1185年の内、1181年と82年、畿内や西国は飢饉に見舞われました。以前はそれほど問題にされていませんでしたが、今日ではこの飢饉の重要性が指摘されています。
史実として、この時期には畿内では大きな合戦は起きていません。1181年3月に平家軍と源行家が戦っていますが、戦場は美濃国の墨俣でした。その他繰り広げられた合戦も信濃や北陸、九州でした。
飢饉により、平家は大軍を催すことができず、源氏も兵糧の調達の困難さにより攻め上れなかったのでしょう。
飢饉は大勢の餓死者をもたらしました。長明は源平という二大武家勢力の死闘と共に飢饉による餓死者の群れを目撃しました。
飢饉、源平合戦での平家の滅亡、そこへ巨大地震が襲ったのです。この世の無常を思わざるを得ませんね。
長明の感慨は彼だけの達観ではなく、当時の人々が抱いた思いであったのは、「祇園精舎の鐘の声……」と琵琶法師が語り継ぎ、共感を呼んだことでわかります。
天台座主を務めた高僧慈円は史書、「愚管抄」で有名ですが、日記に清盛が龍になって起こした、と記しています。当時の人々は地震を起こすのは、地震の虫か龍と考えていたのです。
では、この巨大地震に対し為政者はどのように対応したのでしょうか。
平家が滅び、源氏が勝者となりましたが、地震が起きた時点で源頼朝は鎌倉を本拠とする武士団の頭領にすぎません。日本の政を担うのは治天の君である後白河法皇でした。
巨大な武力で都を治めていた平家は存在せず、頼朝は未だ関東の覇者、地震への対応は後白河法皇と朝廷が担わざるを得ませんでした。
法皇と朝廷はどのような復興策を実施したのでしょう。
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(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年4月22日号より一部抜粋。全文をお読みになりたい場合はこちらより2022年4月分のバックナンバーをお求めの上、お楽しみください)
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