しかし、故人が属していた共同体の中で、故人と何らかのかかわりを持つ人が増えるにつれて、葬儀には第二人称の死を悼む人ばかりでなく、それ以外の人の参列が増えてくる。そうなるにつれ、葬儀は真の意味での鎮魂から逸脱し、別の意味合いを帯びてくる。
例えば、共同体の中で重要な地位を占めていた人が亡くなった場合と、その人の連れ合いや親や子供が亡くなった場合では、葬儀に参列する人の意識は全く異なるだろう。後者の場合、参列する多くの人にとって重要なのは、亡くなった人を悼むことではなく、多くは喪主である社会的地位の高い人に弔意を表することだ。そのことによって、少なくとも今までと同様に良好な付き合いをお願いしたいという意思を表明するわけだ。
前者の場合は、文脈によって状況は全く異なってくる。例えば、大きな会社の社長が亡くなったとして、後継者と目される人は会社の結束を固めるために、葬儀を利用しようとするだろうし、後継者争いをしている人が複数いる場合は、葬儀を利用して自分の支持者を増やそうとするかもしれない。いずれにせよ、この場合は、葬儀は政治的な意味合いを帯びてくる。
翻って、社長ほどには集団内の地位が高くない人、例えば部長や課長が亡くなった場合、遺族に弔意を示しても自分の商売や出世には関係がないため、無理に葬儀に参列しないという人も出てくるだろう。ある程度の地位の人の場合、本人の葬儀より、親や連れ合いの葬儀の方が盛大なことが多いのはそのためである。 (『池田清彦のやせ我慢日記』2022年9月23日号より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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