ほんまでっか池田教授が安倍氏「国葬」を機に考察。人が身内以外の葬儀に出る理由

 

第二次世界大戦中、レジスタンス運動に参加して、親ナチ政権に抵抗したフランスの哲学者、ウラジミール・ジャンケレヴィッチは死を3つのカテゴリーに分けた。第一人称の死、第二人称の死、第三人称の死、である。第一人称の死は自分の死であり、自身が経験することができない死である。従ってこれは、自分にとっては無と同じである。第二人称の死は、連れ合い、親子、兄弟、恋人といった人生と生活を分かち合った人の死である。第三人称の死はそれ以外の人の死である。見ず知らずの人が死んでも、多くの人は悲しくもなければ心を動かされることもない。

第二人称の死は第三人称の死と全く異なる。幼いわが子を失った親の悲しみ、逆に幼いころ愛する親と死に分かれた子の悲しみ、は場合によっては筆舌に尽くし難く、深い喪失感に苛まれ、しばしば鬱状態を帰結する。第二人称の死を悼んで、鎮魂のために葬儀を行うのは、悲しみを覚えた人類に共通する行動であろう。鎮魂とは通常慰霊の意味であるが、実は死者の魂を慰めるというよりは、生き残って葬儀をしている人の魂を慰めるという方が事実に近い。

第二人称の死がどんなに重大かは、他の社会的な仕事をすべて休んで、死者を悼むのが常識だと多くの人が考えていることからも分かる。1858年の6月、マレー諸島で生物の標本蒐集に従事していた、アルフレッド・ラッセル・ウォレスから一通の手紙を受け取ったチャールズ・ダーウィンは驚愕する。手紙の内容は自然選択説に関する論文で、ダーウィンが長年温めていた正にそのアイデアが書かれていたのである。

狼狽したダーウィンは信頼する友達のフッカーとライエルに事情を知らせたところ、この二人はダーウィンとウォレスの両者の顔を立てて、少なくとも自然選択説に関するダーウィンのアイデアはウォレスの二番煎じではないことを、証拠として残すために、1858年7月1日に開かれるロンドン・リンネ協会の会合で、両者の論文を同時に発表するように取り図る。この日、フッカーとライエルは会合に出席したが、マレー諸島に滞在していたウォレスはもちろん出席せず、実はダーウィンも欠席したのである。

ダーウィンの10番目の子であるチャールズ・ウェアリングが猩紅熱のために2歳で亡くなり、この日はウェアリングの埋葬の日だったのである。ダーウィンとウォレスの自然選択説の同時発表という進化論史に残る出来事よりも、自分の愛息の埋葬の方が、ダーウィンにとっては大事だったのだ。

葬儀が第二人称の人の死を悼むところから始まったのは確かで、現在でも故人の近親者にとって、葬儀の最大の意味はそこにあることは間違いない。近年、家族葬といって、近親者だけで葬儀を営むことが流行しているのも、葬儀費用を節約したいという理由ばかりでなく、部外者に鎮魂の邪魔をしてもらいたくないという面も大きいと思う。

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