その大坂本願寺と正面から戦ったのは信長でした。信長は本願寺が所在する大坂に目をつけました。瀬戸内海を天然の運河とし、遠くは大陸に繋がる要地と見なし、居城を築こうとしたのです。信長は顕如に希望の地を代替地にするという条件で大坂からの退去を求めました。
顕如は拒否し、信長との全面対決に突入します。仏敵信長との合戦で死ねば極楽往生ができ、逃げれば地獄に堕ちる、そう信じた一向宗徒は命を惜しまずに織田勢と戦い、信長の親族、有力武将を討ち取るなど一時は信長を窮地に陥れました。
信長は一向宗徒に対し、手段を選ばない苛烈な戦を仕掛けました。一向宗徒の拠点、伊勢長嶋では2万人、越前では3万人を虐殺し、大坂本願寺は日数をかけて兵糧攻めとし、ついに大坂から退去させます。
そんな信長にも圧死事故のエピソードがあります。
信長は相撲が大好きでした。ある日、安土の城下で相撲を催したところ、大勢の見物人が集まりました。その日の取組が終わり、見物人が帰る際、転倒した者をきっかけに大勢の圧死者が出ます。
次回の相撲興行までに信長は担当奉行に死人が出ないよう対策を立てさせました。相撲興行が近づき、信長は担当奉行を呼び、対策を質します。担当奉行は道幅を広げ、退場の順番を決める、と答えました。
至極まっとうな考えです。
しかし、信長はそれでは不十分だと評価します。そしてこうせよと命じました。その日、最も面白い取り組みの後、つまらない催しをやれ、そうすれば帰る者と残る者に自然と分かれる、というものです。当日、優勝した力士が信長から弓を貰い、踊ったそうです。これが弓取り式の始まり、だとか。
信長は人と違う発想をすることを物語るエピソードでもありますね。
いずれにしても、人災による圧死は防がねばなりません。ソウルの事故を教訓としたいですね。亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
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