■不完全なリストであっても
なぜ完璧なコンテキストリストが作れなくても構わないのか。それはこの「タスクの整理」の意義を思い出せば理解できるでしょう。この営みは、完璧な情報の構造を生成するために行われているのではありません。単に自分の心が「整理」されていればいいのです。
この理解こそが、分水嶺です。この理解の手前においては、「リスト」の完璧さや完全性に固執することになります。理念が先にたち、自分が作ったシステムに自分自身が従属してしまいます。セルフコントロールが呪いとなる瞬間です。
しかし、この理解の向こう側では、「リスト」の完璧さは二次的な話でしかありません。うまく整っているリストがあれば心が整理しやすいだけであって、うまく整っているリストがなければどうしようもない、というわけではないのです。
この点が、GTDの解説においてデビット・アレンが「言い過ぎてしまった」要素でしょう。彼はGTDの素晴らしさを伝えたいがために、リストが完全に整備されていないとうまくいかないと思わせる表現を使っています。でもそれはレトリックでしかないのです。
たしかに「水のような心」であれば物事はうまく進むでしょうし、リストが整っていることは間違いなくそれに貢献します。しかし、リストが情報的に何か足りないことがあっても、私たちは集中して物事を進めることができます。
そもそも、ひとりの人間が作るリストが、何の瑕疵もないと考えるのは相当に傲慢でしょう。単に普通に作ったリストにおいて、たいていの日常では問題は生じないから、瑕疵があるとは気がつかずにいるだけなのです。
もしこの話を否定するなら、ひとりの人間は未来方向に対して、そこで何が起こるのかをすべて予測でき、それぞれについて完璧な回答を持っている、という前提を立てる必要があります。これが傲慢でなくてなんでしょうか。
私たちが「水のような心」(いわゆるフロー状態)に入れるのは、状況を完璧に制御しているからではありません。ものすごく集中していても、大きい地震が来たらその集中は拡散するでしょう。ようするに集中に入ろうとしているときには「もしかしたら地震が来るかも」なんて考えていないのです。でもって、そういう考えを持たなくても、日常生活では問題は起きません。
結局、「リスト」は完全完璧でなくても構わないのです。単に自分の「心」が整理されるに足りるだけの整い方がそこにあればいいのです──(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2023年1月30日号より一部抜粋)
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