1264年の元による樺太侵攻で、現在で言えば「アイヌ」および「蝦夷地の民」が鎌倉幕府に助けを求めに来ます。この時に、鎌倉幕府は蝦夷地に軍を派遣します。
しかし、この後の元寇で元が降伏の使者を送ってきたとき、当時の執権北条時頼は「外交権は朝廷にあるので鎌倉幕府では判断できない」ということを言うのです。
鎌倉幕府にいるのは「征夷大将軍」つまり「夷敵」を征服する軍のトップであり、正常の外交権は朝廷が保持しているということを主張します。
樺太侵攻の時は、「日本に元が攻めてきたので征夷大将軍として日本を守る軍を派遣した」とし、外交の使者が来たときは、「与えられた権限は夷敵を排除するもので交渉のための外交は、朝廷にある」とするのです。
その上で、樺太侵攻のことから「日本を攻めた」ということで、和平の交渉ではないということからその死者を切り捨てます。このエピソードが、幕末にペリーやハリスが持ってきた日米和親条約などの調印に問題が出ます。
この外交権の問題があったので、老中堀田正睦は京都に何度も出かけて調印を行うことを願い出ますが、攘夷を考えいた孝明天皇はそれを受け付けなかったのです。その上で、この外交権を無視して、幕府が勝手に条約を結んだということから、大老井伊直弼は様々な意味で批判されることになるのです。
さて、現在は外交権は、政府にあります。
幕末のことから朝廷に外交権があることは確認されており、それを、明治政府は憲法によって内閣に移管するようにしています。そして現在は、天皇が国の象徴となっているので、内閣が外交権を保有しているということになっています。
歴史的なこともあるので、その国を代表する大臣や特命全権大使は、天皇によって任命されるということにもなっているのです。
さて、つまり「外交」を行うのは、三権分立によって行政を任された「内閣」ということになり、他には正式な外交権はないということになっているのです。
その国民の負託を受けた大臣が「国会答弁があるから」ということを言って、外交を無視するというのは信じられる内容ではありません。
「行政権」が国会つまり「立法」から独立されているのかということもわかっていないし、また、国会の中において議事運営委員会があって、審議の順番などはしっかりと決められるということになりますので、外務大臣にかかる審議は外交の後に回すことも可能なのです。
つまり、自分たちで外交努力をして、双方をうまくやることもできるはずなのですが、林外務大臣はそのことを行わなかったということになります。
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