日本の林芳正外相がG20(20カ国・地域外相会合)の欠席を発表したことで、国民からは大きな批判が集まっています。今回、多くの批判が集まった理由はどこにあるのでしょうか? 今回のメルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』では、 外交権の歴史から林外相が欠席した「真の理由」について持論を展開しています。
林外務大臣のG20欠席についての私の個人的意見
三権分立をわかっているのか
「信じられない決定」 林外相G20欠席に批判的─インド主要紙
2023年03月01日17時39分 時事通信【ニューデリー時事】日本の林芳正外相が国会対応のため1日からの20カ国・地域(G20)外相会合を欠席することについて、議長国を務めるインドの主要紙は「日本の信じられない決定」(ヒンドゥスタン・タイムズ)など総じて批判的に受け止めている。
ヒンドゥスタン紙は、欠席を巡って日本国内で批判が集まっていることも紹介しながら「決定はインドを動揺させる可能性が高い」と伝えた。経済紙エコノミック・タイムズは「日印関係に影を落とすかもしれない」と指摘した。
こんな記事が出されています。皆さんはどのように思うでしょうか。
さてあえてこの内容に関して批判するのは、そもそも日本の憲法では「外交権」は「行政府の内閣」にしか認められておらず、その外交権を持っているのは、基本的には内閣総理大臣と外務を分掌している外務大臣(外務省)だけということになります。
日本の歴史上は、日本の外交権は「天皇」または「朝廷」に一任されていました。この事は、日本史の出来事に根拠があるとされています。
少し歴史を紐解いてい見ましょう。古代の日本は、当然に朝廷が外交権を持っていました。朝廷ができる前は、様々な王国が勝手に自分の「村国家」の代表として、外交をしていたと思います。
そもそも、日本の場合は「日本」とまとまったのがいつかということもありますのでなかなか難しいですが、それでも漢委奴国王や女王卑弥呼などは、現在の日本の形の全体ではないにしても当時日本にあった国の代表として隣の国と交渉をしています。その代表は聖徳太子であり「日出国の天子」として手紙を書いているのです。
その後も、朝鮮半島の新羅などにおいて戦った天智天皇や、それ以前の神功皇后などは、全て皇室ですし、平安時代まで遣隋使・遣唐使を行っていたのも、全て朝廷であったという歴史がまずはあります。
その上で、1264年、及び1284-1286年に、元が日本の樺太を襲撃した時にさかのぼります。この時代が起点になるのは、ここまでは日本の政府は朝廷しかなかったので、政権運営と外交が一致していても他には何もなかったということになります。
しかし、鎌倉幕府以降、正確には承久の乱以降、政権は完全に鎌倉幕府に移ります。
外交権も幕府に移ったのか、それとも外交権だけは朝廷に残ったのかということが大きな問題になります。
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