子どもが電車の中で遊んでいるという目の前の状況は変わってないのに、それに対するあなたの感情は瞬間的に違うものになる。どうしてそうなったのか。
相手の話を聞いたから。
もちろん、そんな理由があることの方が稀なのはわかってますよ。でも、相手の話を聞くだけで思いが180度変わることだってあるということを心のどこかに留めておけば、まず判断してしまう自分から、「まずは聞いてみよう。判断はそれから」という自分に変わるかもしれない。
相手の話を聞くというのは、相手のことを知ろうとするということ。相手がどういう状況なのかを知り、理解するとそれをしないで下していた自分の判断がいかに的外れだったかということがわかるんですね。それをしなければ、ほとんどすべての判断は的外れになると言っても過言ではない。
判断の前には「知ろうとする」ということ、つまり「学び」が必要なのはいつも同じです。
集団で何かを決める手段として、学校などで一番よく用いられるのが「多数決」です。そこでは多数決というのは、絶対に従うべきルールと教えられる。「多数決は民主主義の基本だから」「多数決で決まったんだから文句言うな」と僕が子供の頃もよく言われました。でも多数決はときに集団を危ない方向に導く。
例えば、あなたが乗った帆船が大海に孤立したとする。
波が高くなり、風が強くなってくる。雨もひどい。嵐がやってきているようだ。帆を張るのか畳むのか。進むのか止まるのか。進むならどの方角に進むのか判断しなければならない。乗組員は100人であなたも含めて99人が初めての航海だ。船長一人だけがベテランで、何度もそういう状況を乗り越えてきた人だとする。この状況でどうするかを多数決で決めるだろうか。
「帆を張るが39人、帆を畳んで待つが54人、白票が7人でしたので、帆を畳んで嵐が過ぎるのを待つことにしまーす」
という決め方は危ないのはわかるだろう。
この状況で多数決が意味を持つとしたら、100人ともがベテランの乗組員で、何度もそういう状況を乗り越えたことがある人たちであるときだけだろう。ここでは経験という「学び」が判断に変化をもたらす。素人が下す判断と、経験という学びを重ねた人が下す判断は、同じ状況下でも大きく異なることがある。
僕が子供の頃は、学校で何かを決めようとするとき、安易に多数決が使われていたように思う。さもそれが一番いい方法であるかのように。
でも、その前に「多数決に参加するすべての人が、そのことについてしっかり学ぶことが前提になっていなければ、多数決による決定はとんでもない間違いになる可能性がある」ということを教えてもらったことはない。いつも、何の前触れも、何の学びもなく、いきなり多数決だった。
本当に教えなければならないのは、「多数決は絶対!」というルールより、多数決をする前にしっかり学んだ人たちによる多数決でなければ意味がないということだと僕は思っている。
この記事の著者・喜多川泰さんのメルマガ