意味あるものと思えぬ現在進められている核軍縮の議論
今回、ウィーンでのNPTの裏番組的に開催した会合では、核軍縮・核不拡散のモメンタムを維持できるかどうかの瀬戸際に私たちは立っているという認識が共有されましたが、ロシア・ウクライナ戦争やコロナのパンデミックを機に一気に表出した世界の相互不信の強まりと分断が、核兵器の再度の使用というパンドラの箱を開けることにつながりかねないという懸念が表明されています。
国連のグティエレス事務総長は8月6日の広島での式典に向けて「核兵器が完全に廃絶されるまで、核保有国は決して核を使用しないことを約束しなくてはなりません。そして核のリスクを排除する唯一の方法は、核兵器を廃絶することです」と訴えかけました。
これについては全くその通りだと思います。
ただ別の機会に「平和を実現するためには核兵器を世の中からなくすことが不可欠だ」と述べましたが、これに対しては、私はYESとNO両方の答えを持っています。
確かに核兵器が存在する限り、相互同時破壊の可能性は常にそこにあり、以前お話ししたとおり、「自ら作り出した種の絶滅を招く自殺手段」としての核兵器の性格を無にしてしまわない限り、“平和”は訪れません。
【関連】核による“人類の自殺”まで秒読み段階。暴走プーチンが握る世界の命運
しかし、100%その通りとは言えない自分もいます。
最近、専門家が議論するNo First Useの理念(核の先制不使用)がありますが、これ自身に反対する者はいないと信じる半面、核兵器廃絶や核軍縮の議論を総合的に見た際、これはもっともらしく聞こえるが矛盾している内容であると認識しています。
「核を先制使用する者は、即時に核兵器によって報復され、結果、自身も破壊されることになる」という理念と、「核弾頭数を段階的に減少させることに合意する」という理念、「核軍縮の問題は核保有国がイニシアティブをとるべき問題であり、非核保有国は軍縮から廃絶への機運を高めることが役割」という認識、そしてTPNW(核兵器禁止条約)が掲げる「核兵器の禁止」という理念が並立していますが、これらは果たして共存できるものでしょうか?
MADと評される相互破壊の保証は、No First Useの理念を支持する内容だと思いますが、その後に続く報復の内容と、核弾頭数のお話は矛盾します。
相互破壊に対して1万2,000発の核弾頭は必要なく、多く見積もっても現在3発で地球を再生不可能なレベルまで完全に破壊できると言われていますので、現在進められている核軍縮の議論も、実際に起こりうる悲劇に比してみれば、あまり意味のあるものとは思えません。
では核兵器を禁止するTPNWはどうでしょうか?
核兵器の禁止は目指すべき出口・ゴールだと考えていますが、明日から核兵器の製造・保有、そして使用を禁止することに世界が合意したとしても、それが核廃絶に繋がるかというと、かなり道は険しいかと思います。
核軍縮の議論と合わせてみてみると、恐らく最後の1発までの廃棄は、相互に検証可能である限りはさほど難しくないでしょう。しかし、最後の1発をめぐる駆け引きと抵抗はかなり強固であることが予想され、かなり高い確率でcheat(ごまかし)が起こるでしょう。
大量破壊兵器の議論でよく出てくる隠蔽の問題もあるでしょうし、現存の弾頭をすべて廃棄したとしても、ノウハウも技術ももちろんしっかりと残り、受け継がれるわけですから、相互不信という越え難い心理的な壁が取り除かれるという奇跡的な状況が起きない限りは、いつ何時、核兵器の最新版が極秘裏に製造されるか分かりません。
TPNWを実現可能な取り決め・出口にするためには、核兵器が持つ役割をなくし、核兵器の存在意義をなくさないといけません。
この記事の著者・島田久仁彦さんのメルマガ