なぜ米国発のキャンセルカルチャーは「日本人の癪にさわる」のか?有色人種差別から動物の権利まで 滲むカルト性

 

日本の価値観では理解しがたい欧米流「動物の権利(アニマルライツ)」

だが考えてみれば、欧米のキリスト教文化の方がずっと「動物は人間に食べられるために生まれてくるものだ」という観念は強固である。

わしは以前、『戦争論3』で、こう描いた。

「キリスト教は大陸の過酷な環境の中から生まれてきた絶対神、一神教の思想である。
そもそも日本人は自分たちがどれだけ恵まれた環境の中に住んでいるかという自覚がなさすぎる。
ヨーロッパでは冬が長く日照時間が少ない。雨も少ない。
地面は硬質な岩盤で牧草しか生えないが、土地は広い。
日本のように人間が直接食べられる穀物が育たないから農耕が発達せず…
牧草を動物に食べさせて育ててから殺して食う。
動物を殺すことに一切、罪悪感を持たなくても済むように、キリスト教は人間と動物の間に厳格な一線を引いた。
牛や豚は、人間に食べられるために神様が創ってくださった。
…そう言って食肉文化を正当化するのが、一神教たるキリスト教だった」

一見、「動物は人間に食べられるために生まれてくるものだ」という同じことを言っているようにも見えるが、これはかなり似て非なるものである。

仏教的輪廻転生観だと、食う人間と食われる動物は地続きだが、キリスト教的価値観だと、人間と動物は完全に隔絶されている

そもそも、日本本来の文化においても、人間と動物はゆるやかにつながっている。

日本では石でも樹木でも動物でも、あらゆるものにカミが宿ることになっているし、神話の中でも「因幡の白兎」のように、神様と動物が普通に会話したりしている。

それに対して聖書で動物が話すところといえば、エデンの園で蛇がイブをそそのかすシーンくらいで、動物が人と話すなんてことは、とんでもない災厄を招くものだとされているわけだ。

日本で肉食が一般的になるのは明治以降であり、それまでは牛馬は人間と共に働く仲間だった。人獣同居の家を建てていた地域もあり、そこでは娘と馬が恋に落ち、結婚したという伝承まで残されている。

わしが「熊権」とか「牛権」とか「基本的猫権」とか書くのは一種の皮肉で、本当に日本人に「動物権」と言えるほどの権利意識があるのかどうかは定かではない。実際にはせいぜい古来の感覚で、動物に対しても自然に同情が湧くとか、ペットを家族のように思うとかいった、感情程度のものに留まるのかもしれない。

一方、欧米には「動物権(Animal Rights)」という思想が確固として存在している。ただし、それが発生したのは歴史的にそんなに古いことではない。

その発端は、1973年にオーストラリアのピーター・シンガーという哲学者が書いた、たった1本の短い評論である。わずか50年ほど前のことで、『しゃあけえ大ちゃん』の方が10年も古い。この「1973年」という時代も重要なポイントである。

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