ところで僕はできるだけ海伝いに歩きたいので、スプリトからプロチェまでの100キロほどを海沿いにバスで南下してみた。
プロチェは海に面した小さな町で、入江に近い警察署前には高さ1メートル以上も土のうが積まれ、大砲が1門、入江に向けて設置されている。沖合に敵艦が現れたらこれで応戦する気らしいが、たった1門とは心もとない。
さらに兵士の話では、プロチェの南にある世界遺産都市ドゥブロブニクは敵に艦砲射撃を浴びせられていて、そこへ通じる交通手段もすべてストップしているとのこと、事態はおもった以上に深刻だった。
つまり、クロアチアの海沿いを能天気に歩いて旅するなんて、不可能だということだ。残念だが、ちゃんと自分の目で状況を確認したんだからあきらめもつくというもの。ここはルートを変更して徒歩旅行をつづけよう。
そんなときに別の兵士が、プロチェから海伝いに南へは行けないが、内陸のメトコビッチへ向かうバスはあるという。メトコビッチは当時の主戦場ボスニア=ヘルツェゴビナとの国境に位置する山間の町で、そもそも僕の歩くルートには入っていないが、せっかくここまで来たので足を伸ばしてみることにした。雑誌記者時代に湾岸戦争中のイスラエルを取材した経験があり、実はキナ臭いところが嫌いでない性分だし。
青々とした水が滔々と流れるネレトバ川沿いに20キロほど田園地帯を走ると、バスはメトコビッチに到着した。人口1万5000人の小さな町なのになんと兵士の姿のめだつことか。さらに街なかの建物の白壁には蜂の巣状に無数の弾痕が残り、ガラスどころか窓枠まで吹き飛ばされた家屋も多い。窓の応急処置はビニールかベニヤ板張りだ。
町の中心から国境までは直線でたった1キロ。ときどきセルビア人勢力は国境の向こうのボスニア=ヘルツェゴビナ側の陣地からメトコビッチの中心めがけて迫撃砲を撃ち込み、自動小銃を乱射してくるという。その痛々しい爪あとが町じゅうで見られた。スプリトよりプロチェで、プロチェよりメトコビッチで戦争の緊迫度は増していた。
バスターミナルに戻ると、兵士たちが三々五々しゃがんでバス待ちしていた。僕はそろそろスプリトへ戻るつもりだったが、一部の兵士がニヤニヤ笑いながら手招きし、こっちのバスに乗れという。それはなんと戦争まっただなかのボスニア=ヘルツェゴビナの前線付近へ向かう、軍が徴発した3台のバスだった。