失業中に結婚し居候も。作曲家・小林亜星さんの破天荒な半生と父母への思い

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CMソング『日立の樹』『パッとさいでりあ』、アニメ主題歌『ひみつのアッコちゃん』『怪物くん』、レコード大賞受賞曲『北の宿から』など、日本人の誰もが耳にし、歌い継がれる多くの楽曲を作曲し、俳優としても活躍した小林亜星さんが、5月30日に心不全で亡くなっていたことがわかりました。享年88歳でした。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』でライターの根岸康雄さんが紹介するのは、小林亜星さんが自身の破天荒な半生と両親について語った95年のインタビュー。ドラマ『寺内貫太郎一家』で演じた役とは正反対とも言える生真面目な父に対しての心残りも告白しています。

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小林亜星/作曲家「“不思議なんてない!”『不思議の国のアリス』でオフクロに叩かれた、あれが僕の原点かも」

インタビューした90年代半ば、小室哲哉作詞作曲のダンスミュージックが世の中を席巻していた。日本の音楽シーンが、そしてバブル後の日本が大きく変容しようとしていた時期だった。「小室くん、良いけどね……」ポツリとつぶやいた後、「メロディの時代が終わり、これからはリズムが全盛になるだろう」「リズムはまず身体に響く、これまでのように歌にワビとかサビとか、考えるとかジーンと泣けるとかいうことが少なくなる。歌謡曲という言葉もなくなるね」稀代のメロディメーカーのつぶやきが耳に残っている。(根岸康雄)

僕は軟派に憧れたのか、親父もオフクロも超マジメ

うちはね、特殊な家庭だと、僕は物心付く頃から思っていた。新潟で病院を経営していた親父の父親、僕のおじいさんは相当な遊び人だったそうじゃないか。上京した親父は劇作家を目ざしたが、友達が新聞のコンクールに入賞して出世していくのを目の当たりにして俺はダメだ、才能でメシを食う世界は向いてないと、早々に親父は自分の才能に見切りをつけたんだろう。郵政省の試験を受けて結局、ずっと役人を続けた。役人として人生を送った親父はマジメで堅くて、よき家庭人だった。

オフクロもまた堅い人で、僕はそんな両親を見ていてね。──あんなマジメな人生じゃ、面白くもなんともないじゃないか。子供心にそう思ったのは、生まれつきナンパな人間というか、両親にない遊び心を持っていたのかもしれない。オフクロは今、90歳。身体のほうはピンピンしているがちょっと耳が遠い。この前、女学校の同窓会があって顔を出したら同級生は3人しか生きてなくて。その3人がみんな耳が悪いから、お互いに何言ってるのかわからなかったと言っていた。

「90歳を過ぎて同窓会はダメだね、お前の時は止めたほうがいいよ」。そう言っているオフクロの顔があまりに真顔なので、つい笑っちゃったんだけどさ。

オフクロは長野出身で、農機具を修理する鍛冶屋をやっていたというじいさんが、親父方のじいさんに負けず劣らすの道楽者でね。芸者と駆け落ちして10年ぐらい、家に帰ってこなかったというんだから。

オフクロはおじさんの援助で上京して女学校を出て、左翼になっちゃってさ。当時の大正デモクラシーの名残が残る昭和初期は、左翼がちょっとしたブームだったんでしょう。日本初の新劇の常設劇場で、左翼の人たちが集っていた築地小劇場に出入りして、当時の写真を見るとオフクロはベレー帽なんかかぶっている。「亜星」と名付けたのもオフクロで当時、尊敬する演出家の息子の名前を取って名付けたそうだ。

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