「反対を通り越して、憎悪のマグマです」。
そう切り出したその男性。障がい者はマイノリティの立場で、政策に取り残される疎外感に抗い、その立場を主張するイメージが定着しているが、実は「障害者も権力に縋らなければ生きてい行けない人もいるから、声を上げない、または権力に密着する人も多いのです」と言う。特に安倍晋三首相は敵と味方を明確に分けて、世論を二分して巧みに反対意見の牙を抜いていくことに長けている。だからいつの間にか障がい者の「仲間がいなくなった」と嘆く。だから「マグマになるしかない」と言う。最近の政権による次から次へと繰り出される「弱い立場」を愚弄するかの振る舞いから、なお更に怒りは蓄積するばかり。安保法制や対テロ法案で障がい者が感じるのは、「命を守る」国、ではなく、「命が守られない」国に対する不安であろう。
例えば車いすの男性が、喧嘩に巻き込まれた場合、男性はその身体的ハンデゆえに苦戦を強いられる。足が不自由であれば、逃げるのにも苦労がいるだろう。この喧嘩において、男性はやはり逃がしてもらうことを考えるべきで、喧嘩の中で男性が逃げることを許されるには、その仲間たちが、その男性を優先的に助けるという文化がなければならない。
不自由な状態にある方々の命を守る意志は、制度や仕組みではなくフィロソフィー(ものの見方、考え方)の問題である。命を守る、という高い倫理観。この考えを突き詰めれば戦いの回避に力が注がれるはずだ。
今、日本はその高貴な倫理観を持ち合わせて国民を守る、とは到底思えず、むしろ、弱者を顧みず自分の戦いを優先し、マッチョな姿で国際社会から尊敬されたいという欲望に満ちているように思う。
この論の展開は通常、左右のイデオロギー対立へと誘導されてしまうのだが、政権が繰り出すそれぞれの法案への違和感はイデオロギーという政治思想や仕組みの問題ではなく、命をどのように大切にするか、という倫理観の問題だ。
今の政権が繰り出す法案も国会での答弁もすべては、人を大切にしているようには思えない。だからいまだに噴火しないマグマとなって、今その時に向けてエネルギーをため込んでいるのだ。
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