その証拠として「宿題代行業」の存在がある。ドリル1冊何千円、という感じで、「代行」してもらうサービスである。特に受験を控えている子どもにとって、宿題が「受験の邪魔」になっているのが現実である。こういった「代行」業の方々にとって、「大量の宿題」は金の生る木で、大歓迎だろう。夏休みの過剰な宿題へのニーズは、すべてここにあると言っても過言ではない。
受験を控えていない子どもにとっても、長期の宿題は、やはり面倒である。大人だって、やっととれたお盆休みの最中に「毎日○時間の作業」や「レポート&プレゼン資料の準備」という残業を課されるのは嬉しくないだろう。お金を払ってでも代行してもらいたいという気持ち自体はわからないでもない。逆に、中にはそれで小遣い稼ぎをしたいという子どももいる。個人の「負担感」の違いである。
負担感といえば、教師の側。大量に持ち込まれる35人×課題の数々=何百。これを、一体どう「捌く」のか。「一行日記」が30日間分書かれていたら、これだけでトータル千を越える文章を読む訳である。「多忙」な教師生活のスタートがもうここから始まる。多忙の根本的な原因を「捨てる」必要があると思う次第である。
本質に立ち返る。本当に、夏休みの宿題は、必要なのか。多くの人に、歓迎されているのか。利益をもたらしているのか。
夏休みの宿題の出し方自体に、働き方改革の根本的な問題が隠れていないか。根本・本質・原点に立ち返り、見直す必要がある。
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