「もったいない」を「ありがとう」に変える、食糧支援の感動物語

 

「もったいない」食品が「ありがとう」に変わる

弁当が出来上がったところでトラックがやってきた。弁当をテキパキ積み込むと、休む間もなく出発。自らハンドルを握るのがセカンドハーベスト・ジャパン代表チャールズ・マクジルトン(54歳)だ。およそ10分でトラックは隅田川のほとりの高速道路の高架下へ。そこには既に弁当を待つ人達が集まっており、あっという間に200人以上の行列ができた。第2、第4土曜日の午後1時から行っている食料の配給だ。

持ってきたのは弁当だけではない。パンやヨーグルト、日持ちする食品も配る。並んでいる人の多くはホームレス。この炊き出しは10年続いており、彼らの間では有名なのだ。

チャールズは談笑しながら行列を整理。その間、食料を配っていたのはホームレスの人たち。毎週、手伝っていると言う。誰かに言われたわけではなく、自発的にグループを作り、配給を手伝うようになった。

この活動を、チャールズはある信念のもとに行なっているという。

助けることが目的ではなく『こっちに食べ物が余っています。よかったら使ってください。』…つまり『食べ物を分配しましょう』ということです」(チャールズ)

食料は浅草橋の本部でも配っている。そこに女性がキャリーバッグを引いてやって来た。斉藤香織さん(仮名)。小学生と中学生の子供がいるシングルマザーだ。

本部の一部は常設の食料配布場所になっていて、好きな時にもらいにくることができる。食料の支給は一人年に6回まで。もらえる量はその日によって変わるが、だいたいカゴ3つから4つ分。斉藤さんはこの日、カゴ4つ分の食料を選び出した。

斉藤さんは夫のDVで5年前に離婚。その後うつ病になり、働くこともできなくなった。現在収入はなく児童扶養手当だけで生活している。

「四ヶ月に1回、まとめて支給されるので、うまくやりくりしているつもりが、受給の前の月になると生活が大変になります。一番しわ寄せがくるのが食費なんです」(斉藤さん)

子供がいるのに食べさせることもできない。困っている時にセカンドハーベストのことを聞き、2年前から通うようになった。

「みんな、スーツケースを持ってきてたくさん持って帰る。こんなに困っている人がいっぱいいて、オープンに持って帰っていいんだと、ちょっと安心しました」(斉藤さん)

食料支援を受けているのは斉藤さんのような個人だけではない。車で来た濱松敏廣さんは、「学習塾で使う食料をもらいに来た」と言う。食料を運んだ先は東京・新宿のビルにある「ステップアップ塾」。子供たちがボランティアの先生に勉強を教わっていた。ここは貧困家庭を支援する塾。世帯年収135万円以下の家庭の子供が8割を占める。

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隣からいい匂いがしてきた。やはりボランティアのお母さんが夕食の準備中。貧困家庭の子供が多いため、セカンドハーベストから仕入れた食材で食事を出しているのだ。

この日のメニューは炊きたてご飯と、揚げ春巻きや銀ダラの煮付けなど、おかずが4品。さらにサプライズの差し入れも。セカンドハーベストと新たに支援する契約を結んだ企業ユニリーバからアイスクリームのプレゼントだ。普段、なかなか食べられないスイーツに子供たちは大喜び。「無償で頂ける物がなければ成立しません」(濱松さん)と言う。

今の日本には、セカンドハーベストを頼りにしている人たちが現実にいる。浅草橋まで取りに来ることができない人のためには、食料の配送も行う。配送しているのは東京・神奈川・埼玉の1都2県。自分で取りに来る人と合わせ、1万世帯の味方となっているのだ。

みんなが安全に食べ物にアクセスできるフードセーフティーネットを作りたいんです。何かあったら病院に行けるのと同じ感覚で、セーフティーネットがある。そんな安心の気持ちを伝えたい」(チャールズ)

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ホームレス体験が生んだ~フードバンク誕生秘話

チャールズは1963年、アメリカ北西部のモンタナ州で7人兄弟の長男として生まれた。父親は高校教師。子沢山なのに加え、孤児なども預かっていたため、家は貧しく、チャールズはいつもお腹をすかしていたと言う。

4歳の時、何かお腹に入れたくて手を出したのが救急箱に入っていた咳止めのシロップ。これが美味しくて、その後は料理用のラム酒バーボンなども試すように。その結果、12歳の頃にはアルコール依存症となってしまった。

「悲しかったんですね。私が死んだらみんな幸せではないかと思っていた」(チャールズ)

高校時代に必死の思いでアルコール依存症を克服。卒業後には海軍に入った。その後、横須賀基地に配属されたチャールズは1984年に初来日。除隊後、大学に入り、東京・山谷の修道院に下宿した。そこで見たのは昼間から酒を飲み、路上で寝たりしているドヤ街の人たち。かつて酒に溺れたチャールズは、彼らのことが気になって仕方なかった。

そんな山谷の人たちのための炊き出しが毎週修道院で行われ、チャールズも手伝うようになる。だが、そこである違和感を覚えた。

「『これからあんたに食べさせる』と言うんです。子供ではないのになぜ『食べさせる』という表現になるのか。心が痛くなりました

するとチャールズは驚きの行動に出る。食料をもらう側の気持ちになろうと、隅田川沿いの歩道で路上生活を始めたのだ。

テントの作り方などいろいろなことを、炊き出しの時に顔見知りになっていたホームレスのコマダさんが教えてくれた。最初の夜は、コマダさんが言う通り寒さが身にしみた。朝を迎えるとスーツに。この時もチャールズは働いており、テントから会社に通っていた

こうして人知れず始めた路上生活。食事は毎晩テントの中で煮炊きし、自炊。インスタントラーメンばかりなので、少しでも栄養を摂ろうと野菜や卵を入れるようにした。会社員として働いているため臭いをさせるわけにはいかない。シャワー代わりに利用したのは、広めのスペースがあった公衆トイレだった。

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