ときには心が癒える音色も
でも、悪い騒音だけではありません。夜半過ぎ、面しているレキシントンアベニューから、いつも、物悲しい、そして優しくも甘い、あまりにも上手な口笛が聞こえてきます。多分、南米かそのあたりの民族民謡なのか、耳に心地いい音色です。
決まった時間に必ず聞こえてくる、その誰が奏でているのかわからない口笛を、ほんの1分くらいですが、BGMにして眠りにつく。そんな日々がある時期、続いていました。
共有のランドリーで、日本人の新入居者に挨拶された時のこと。同世代のその女性に、ランドリーのルールなどを聞かれていた際、彼女がふと「そういえば、ここのマンション、夜、いつも決まった時間に口笛、聞こえてきません?」と尋ねてきました。どこの誰だか知らないけど、私、あの音色が好きで、と。
確かに、いい曲調ですよね、と僕が言うと、彼女はウットリした表情で「ユアン・マクレガーみたいな人を勝手に想像しているんです」と、口笛の主を推測していました。
翌日、残業から帰宅した際、マンションの入り口で、例の口笛が聞こえてきました。振り向いた僕の横を、3頭身のハゲてるチョビヒゲのメキシカンが、デリバリー用の自転車に乗って、横切るところでした。あの音色と共に。条件反射的に、その自転車を「待って!」と捕まえてしまいます。
びっくりした、その小太りアミーゴは吹いていた口笛をヤメ「ソーリー!」と謝ってきます。鼻毛大放出のまま。そりゃそうだ。気分良く口笛吹きながら仕事してたら、見ず知らずのアジア人に捕まえられたのだから。
「いや、こっちこそ、ごめん。あの…いつも口笛吹いてるの…おじさん?」そう聞くと「うるさかった?ふるさとの子守唄なんだよ」と照れた表情。鼻毛大放出のまま。「いや…これからも。とても好きだから…」と強引に作った笑顔でお礼を言って、そのマショマロマンのような“ユアン・マクレガー”を見送りました。
彼は再び、口笛を奏で、去っていく。鼻毛大放出のまま。ランドリーで会った彼女には内緒にしておこうと思います。知らない幸せ。知っちゃう不幸。