国旗の「公共性」から考えるインクルーシブな行動が自然な社会

 

公共への議論は多くの国が辿ってきた道である。日本の場合も1999年の国旗国歌法の成立をめぐっては、太平洋戦争の苦い経験から、戦時中と変わらず日の丸を国旗とするのは認めたくない人も存在したし、今も存在している。

私が若手の新聞記者時代にあった戦後50年でも、だんだん衰えつつあるものの戦中派も経験を口にすることで反戦運動はある程度のリアリティを維持しつつ、日の丸に絶対反対の集会も各地で行われていた。戦中を知る人の声は尊く、あの悲劇を繰り返してはならないとの声は力強かった。

しかし戦後は遠のき、現在は国際社会でも国内においても、日の丸が公共的なコンセンサスを、完全ではないことも含めて、一般に得られ、「公共」となってきた。だから、この公共である、ということを意識するところから、私たちが自分たちの国=社会の姿を考えるきっかけになれば、と思う。私たちは五輪を行って、日の丸を公共のものとして考える国民として、どんな社会を作っていくか、という問いである。

この議論の中で、私が考えるのは、偏狭な気持ちで不寛容な姿勢では、公共が隔絶された狭い世界に閉じ込められてしまい、他者を排除してしまう傾向になってしまうことだ。人とモノの移動が活発になり、国境を越えて情報交換が自由に行える現代において、どんな人も同じところで同じように事を行うインクルーシブを基本姿勢にするのは自然な流れである。

公共の議論はおそらく、インクルーシブであろうとする自然なエネルギーと一体であってほしいと思うのだが、日ごろ、障がい者雇用や障がい者の学びを実践する立場として直面するのは、インクルーシブに対する「心の抵抗」のような壁である。

いつも思うことは、何もかも自然に出来ないだろうか、ということ。障がいがあって「できないこと」は、「あら、そうなの」と言って、当事者本人の希望に沿うように体や頭を動かす。これを特別ではなく自然なこととして、その行動はわたしたちの「公共的」な姿勢として定着できないか。

その形の1つとして日の丸も公共の中の1つとして、誰もがインクルーシブに生きる社会のイメージとつながれば、それは行動も伴う公共財として位置付けられるのではないかと思う。

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特別支援教育が必要な方への学びの場である「法定外シャローム大学」や就労移行支援事業所を舞台にしながら、社会にケアの概念を広めるメディアの再定義を目指す思いで、世の中をやさしい視点で描きます。誰もが気持よくなれるやさしいジャーナリスムを模索します。

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