「裁量」という言葉に潜む本質
3つ目は「裁量」です。
頭脳労働というのは単純な手作業ではありません。あるまとまったタスクがあり、そのタスクを期限までに遂行するにあたって、一人一人の頭脳労働者はそれこそ頭脳を使い、足を使って調べたり、コミュニケーションによって情報を取ったり、様々な作業を組み合わせてタスク遂行のための情報やリソースを集めて実行するのです。
その責任ある複雑な作業を自分の裁量で行うところにその人材の達成感があり、また自分の裁量で行うことでスキルを認められた、というポジティブな感覚に至るのです。頭脳労働というのはそのようなものです。
一見すると、頭脳労働ではなく実際にモノを加工するなどの実務であっても、多くの仕事は頭を使って複雑な部分タスクを組み合わせて一つの成果物を作り上げるものです。その意味で、あらゆる仕事はクリエイティブだと言えるでしょう。
問題は、そこに横やりが入るということです。折角自分で考えて計画通りのタスク遂行に入っているのに、組織の中では「途中でのホウレンソウがない」とか、あるいは無能な上司が「大丈夫かな、俺その辺の技術の件分からないので教えてよ」などと妨害する、あるいは「悪いけど別のプロジェクトが行き詰まっているんで助けてくれないか」とか、最悪の場合は「俺は役員報告あるんだけど、自信ないんで明日の東京での役員会に同席してくれないか」などと、人の時間を奪うような場合もあります。
とにかく、専門性のある頭脳労働では、その日その日の仕事いうのは自分の裁量で進めるわけで、そこに「裁量権を妨害する」ような形で上司や同僚が介入するというのは、人格否定になると思います。
実は、昭和型の会社では職場というのは「そういうもの」だとみんなが麻痺していて、上から降ってきた「裁量権の侵害」については、顔色一つ変えずに対応することになっていました。ですが、現代は全く違う時代です。個々人の専門スキルを深めないとグローバルな競争では負けるし、そもそもデフレ社会の中で企業内のリソースもギリギリでやっているわけです。
そのような環境では、とにかく「上司は部下に対して絶対」だというような勘違いから部下の「裁量」に介入したり、裁量権を奪ったりするのは重大な人格否定になるということを警戒すべきと思います。
いずれにしても、「どこまでがパワハラか?」というような「のんきな疑問」を抱いているようでは、既にその会社や組織は終わっています。
叱責は問題外、指導は要注意、裁量権も要警戒というのを基本として、部下の人格を100%認める会社だけが勝ち残っていくし、それができない会社や管理職は淘汰されていくだけだと思います。
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