大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀はなぜ信長を討ったのか?

 

本能寺の変というクーデター

信長と家康は義兄弟という間柄ではあったが、その実は主従関係であった。信長にしてみれば、甲斐武田氏が滅んだ後は備えとしての家康の利用価値はほぼ無いに等しい。一方家康にしてみれば、それまで信長からは随分と酷い仕打ち(三方ヶ原の戦い・嫡男信康切腹・正妻築山殿殺害)を受けて来た訳だからいよいよ我が身が危ういと感じたに違いない。

実際、佐久間信盛や林通勝(秀貞)の追放など、織田家中では粛清が始まっていた。変後の神君伊賀越えも信長存命の可能性を恐れてのことだったのかもしれない。仮に信長が光秀に対して家康暗殺または討伐命令を出していたとするなら一万余もの軍兵が比較的容易に京に進軍出来たのも理解できるし、またそうであるなら本能寺を囲まれた時に謀叛の首謀者として真っ先に家康の顔が信長の脳裏に浮かんだ筈である。

結果として光秀が信長殺害に失敗したなら家康は窮地に追いやられることになる。神君伊賀越えは生き残った信長に詰問された際の言い訳である。「信長様とともに戦うため一命を賭して一旦領国へ戻り配下の兵を引き連れて上洛するつもりでした」とでもいえばいい。いずれにしろ、家康はせいぜい同調者程度の関わりである。

となれば理由はやはり光秀本人の中に見出すべきであろう。あまり言及されないが、光秀は紛れもなく戦国人である。戦国に生まれ、戦国に生き、戦国に死す。それが戦国の武者である。

小説やドラマでは光秀は心優しい名君として描かれることが多い。事実そうであったろう。しかしながら、残酷な殺戮者・征服者としての側面も戦国の同時代人として当然持ち合わせていた筈である。そして戦国人である以上やはり天下を夢見たであろう。いや、夢とばかりは言い切れない。少なくとも光秀はそれに手を伸ばせば届くところにいたのである。だから「本能寺」に賭けたのである。

チャンスは突然やって来た。信長父子が小勢で京に滞在している。堺の家康討伐を口実に大軍を京に進めることが出来る。父子を討ち取るには信長、信忠の順でなければ仕損じる。どちらか一方でも逃せば織田宗家は存続しクーデターは失敗である。

この大事を光秀はやってのけた。少なくとも半分は成功した。唯一にして最大の失敗は信長の首級を挙げることが出来なかったことである。天下人信長の死亡は100%でなければ意味が無い。ほぼ確実の99パーセントでは駄目なのである。その残り1パーセントに家康は揺れたし、秀吉は付け込んだ。しかしながら、この瞬間において惟任日向守光秀が日本で最も強い光彩を放ったということは間違いない事実であろう。

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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