「くわばらくわばら」は菅原道真に由来する?知られざる意外な関係

 

道真は讃岐守に任官し、讃岐(香川県)に赴任します。赴任して1年半程が経過した、仁和三年(887)7月30日(新暦8月22日)の午後4時ごろ、五畿七道諸国にわたる巨大地震が起きました。推定マグニチュード8~8.5の大震災でした。

貞観大地震の18年後です。阪神淡路大震災の16年後に東日本大震災が起き、日本人の記憶に阪神淡路大震災がまざまざと蘇ったように、仁和地震が発生した時も、多くの人々が貞観大地震を思い出したことでしょう。

平安京は数多の建物が倒壊、余震も続きました。摂津は津波被害が甚大で、数えきれないほどの溺死者が出ました。近畿と瀬戸内海を隔てた四国も大きな被害があり、道真は讃岐守として復興に当たったことでしょう。方略試の試験で地震について回答した道真ですから、的確な避難、救済活動を行ったと思われます。

菅原道真と言えば異例の出世と左遷の憂き目に遭い、怨霊となったことで有名です。

道真は右大臣にまで昇りますが、それは宇多天皇の信頼を得たからでした。この頃、藤原氏系の皇子が不在であった為、宇多天皇は藤原氏の影響を受けない政治を行います。とは言え、藤原氏は朝廷で重きを成していました。道真は藤原氏の顔色を窺うことなく、意見を述べることで宇多天皇の信頼を得たのでした。

しかし、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が即位して4年後、藤原氏の策略によって失脚しました。道真が娘婿の斉世(ときよ)親王を皇位につけようとして醍醐天皇の廃位を企んだ、とされたのです。

濡れ衣もいいところだったのですが、宇多天皇の後ろ盾を失った道真は延喜元年(901)2月、大宰府に左遷されました。左遷されただけでなく、任地へ赴く費用は自腹、従者も俸給も与えられず、政務に関わることも禁止されてしまいました。

大宰府内の浄妙院で謹慎の日々を送ります。失意の日々で詠んだ、「東風(こち)吹かばにほひをよこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」は有名ですね。この歌の為、道真を祀る天満宮は梅の花が名物です。

この記事の著者・早見俊さんのメルマガ

初月¥0で読む

print
いま読まれてます

  • 「くわばらくわばら」は菅原道真に由来する?知られざる意外な関係
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け