大宰府赴任の二年後、道真は無念のまま亡くなりました。そして、道真は怨霊と成りました。
道真が没して五年後の延喜八年(908)、道真の弟子であったのに道真失脚に加担した藤原菅根が落雷で死亡します。更に翌年、道真を大宰府に追いやった藤原時平が39歳の若さで急死してしまいました。
この年から数年、洪水、干ばつ、長雨、疫病の蔓延が続き、道真の祟りだと噂されました。延喜二十三年(923)には醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳の若さで亡くなります。保明は時平の妹が産んだ子でした。
醍醐天皇は道真の祟りだと思い、道真を大宰府に左遷した勅書を破棄、右大臣に戻して正二位を贈りました。それでも祟りは終わらず、2年後、保明親王の息子慶頼王が5歳で夭逝してしまいました。
まだまだ祟りは止まず、その5年後、延長八年(930)御所の清涼殿が落雷で全焼、醍醐天皇は衝撃の余り退位し、間もなく崩御しました。
醍醐天皇の崩御後、道真の祟りは鎮まったかに思えましたが、天慶五年(942)、平安京に住む巫女、多治比文子に道真の霊が憑依し、自分を祀るようお告げをしました。
この頃、関東では平将門、瀬戸内海では藤原純友が相次いで反乱を起こしましたから、朝廷はこれ以上の世の乱れ、道真の怨霊を恐れ、道真を祀ります。
それが北野天満宮です。
道真は学問に優れていましたから、恐ろしい雷神ではなく詩文の神様として尊崇されるようになります。鎌倉時代以降には歌合せ、連歌会が催されるようになり、文芸や学問の上達を願って訪れる参拝者が増えてゆきます。
道真は怨霊から学問の神様となり、太宰天満宮、大阪天満宮、湯島天神、亀戸天神をはじめ、約1万2,000社もの神社で祀られるようになりました。
また、都で落雷騒ぎが起きた時、道真の所領であった、「桑原」には一切、雷が落ちなかったそうです。この為、雷が発生すると人々は、「桑原、桑原」と唱えるようになります。
菅原道真は地震と雷、火事に関わり、とても怖い親父になったのでした。
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(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年7月8日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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