人生に生きる意味なし。ホンマでっか池田教授が年老いて判った事

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人間誰しも一度は深く考える、自らの生きる意味。そんな「哲学的」とも言える疑問も、歳を重ねることで解消するケースもあるようです。今回、「75歳を超えて、人生に生きる意味はないという当たり前の事実が分かるようになった」と書くのは、生物学者でCX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの池田清彦教授。池田教授はメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』に、自身がなぜそのように思うに至ったかを綴っています。

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歳をとって分かったこと-人生に生きる意味はない-

最近『バカにつける薬はない』という本を上梓した。2021年の1月から2022年の4月にかけて、このメルマガに連載したエッセイをまとめたものだ。その中のV章は「老いの人生論」と題して、老人になった感慨を綴ったものだ。昔まだ若かった頃『昆虫のパンセ』(青土社、後『虫の思想誌』と改題して講談社学術文庫)に収められた「ファーブルと彼の虫たち」の中で、ファーブルが再婚相手との間に、ファーブル64歳、66歳、71歳の時に子宝に恵まれたという話に続いて、「残念ながら私は老人になった事がないので、71歳で子供を作るという意味がよく分からぬ」と偉そうなことを書いた。

それから30年の時が過ぎて、今や75歳というまごうことなき年寄りになったが、71歳で子供を作るという意味がよく分かるようになったかというと、やっぱりよく分からないのである。肉体的な老化とはどういうことかを、身に染みて分かるようになる以外には、歳をとったからと言って分かるようになることは余りない。

しかし、そんな中でも、ああそうだったのかと分かることも稀にある。75歳を過ぎた老人になってよく分かったのは、人生に生きる意味なんかないという、当たり前の事実である。若い時は、頭に余力があって余計なことを考えるので、人生の意味なんてことも考えたくなるが、心を虚しくして見れば、人生に意味なんかないのは当然の気がする。そもそも、悠久の宇宙の歴史から見れば、人類の生存や繁殖に何か意味があるかと言えば、何の意味もなさそうだ。

冒頭に挙げた「老いの人生論」を書いてから、まだ1年程しか経っていないが、「人生に生きる意味などない」ということがしみじみと腑に落ちたのは、1年歳をとった成果である。これで、死ぬのが余り怖くなくなった。私は若い頃から、完膚なきまでの無神論者で、宗教に魅力を感じたことは一度もない。宗教を信じる人は、結局のところ死ぬのが怖いのだと思う。

動物は、苦痛から逃れたいとは思うだろうが、死ぬのは怖くないに違いない。そう断言すると、動物になったことがないのに、どうしてそんなことが分かるんだ、と絡んでくる人がいそうだけれど、動物は、脳の構造からして、人間のように確固とした自我を有していないので、死ぬのは怖くない、と考えて差し支えない。

人間が死ぬのが怖いのは、自我がなくなるからである。現在の脳科学では、自我は前頭連合野に局在するようだ。ここは人間で一番よく発達している。個人の内的な感覚としては、自我は自分以外の全存在と拮抗する唯一無二の実在である。自我がなくなるということは、自分以外の存在物(の少なくとも一部)は無傷のまま保たれるのに、自分にとって唯一無二の自我が喪失することを意味する。従って、死が自我の喪失を不可避にもたらすのであれば、死が怖くないわけはないということになる。

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