実際に学ぶことという事をシミュレートしてみましょう。
ある意味で、「学ぶ」というのは、「その内容に興味を持ち、そしてその内容を自分なりに解釈して理解し、そしてそれをきっかけにして自分で調べて知識を深める」ということになります。
最近ではそれだけでは足りず「その知識を使って自分なりに加工し応用力をもって新しい事項に対処できる能力を付ける」ということが重要になってきています。
では皆さん自身も含めて「教科書で興味を持った」という人はどれくらいいるのでしょうか。
少なくとも私の場合、日本史などは教科書では全く面白くなかったし、また、それで興味を持つことはなかったと思います。
何度も書いていますが、日本史に一番初めに興味を持ったのは幼稚園の頃、あれを学びといってよいかどうかはわかりませんが、『宇宙戦艦ヤマト』をみて、その第一階の放送で「あれが男の船だ」という言葉を聞き、「宇宙戦艦になる前の戦艦大和」興味を持ったのが初めであると思います。
そのようにして「過去」ということに非常に脅威を持つようになり、その後、小学校4年生の時に、NHK大河ドラマの『おんな太閤記』(佐久間良子さん・西田敏行さんが主演)を見て、戦国時代のロマンを感じ、その翌年TBSのドラマ『関ケ原』(森繁久彌さん・加藤剛さん主演)で司馬遼太郎先生の本にはまったのが私の歴史のきっかけであると思います。
私でなくても、例えば司馬遼太郎先生の『龍馬がゆく』を読んで坂本龍馬と幕末にはまった人は少なくありません。
では、私のように宇宙戦艦ヤマトや大河ドラマ、または龍馬がゆくなどから歴史に興味を持った人は、「教科書ではないから」ということで遊びの一部でしかなく学んでいないということになるのでしょうか。それは何かが違うのではないかと思います。
もちろんその物語で止まっている人もいますし、また、その後調べて歴史学者になる人もいます。
見ている人が全て学んでいる人とも思えませんが、しかし、それは学びの一つの形態であり、特に「興味を持つきっかけ」としては、何でもよいのではないかという気がします。
そのうえで、その感想を書く時にはどうするでしょうか。
ドラマの感想などを、現在の若者はSNSに投稿しますが、その投稿は「総て活字」になります。
他の人の投稿を読むのも活字ですし、自分も活字で投稿を挙げます。
もちろん正確な日本語ではなく、暗号や略語を使うこともあるでしょう。
文章になっていないような感想も少なくありません。「ああ」しかかけないような感想もあると思います。
では、それを批判する人にあえて聞きますが、松尾芭蕉の「松島や ああ松島や 松島や」は愚にもつかない感想なのでしょうか。松尾芭蕉ならば「ああ」だけでよくて現在の若者では「ああ」だけでは活字とは言えないというのは差別ではないかと思います。
このように言えば、どんどんと続くのですが、まあこの辺にしておきましょう。
実際に「本でなければならない」「本が売れないのは若者がおかしい」というのは、単なる偏見です。
もちろん、本屋の経営者がそのように言うのは、自分の商売のことがあるので批判はしませんが、一般の人がそのように言うのは、何かおかしいのではないでしょうか。
要するに若者は「活字離れ」をしているのではなく、「活字を使う形態が変わった」ということになります。
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