興味を持っている対象に「しっくりくる名前をつける」ことの難しさについて

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名前をつけることでぼんやりとしていたものが明確になるということがあります。自分の考えや感覚、主張や要求を他者に伝えるにも適切な言葉選びは大切で、そうした名付けや言葉選びの難しさと日々向き合っているのが文筆業の人たちなのかもしれません。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で、Evernote活用術等の著書を多く持つ文筆家の倉下忠憲さんは、自分が興味のある「知的生産の技術」について、もっと適切な言葉で言い換えられないか考えていく過程をありのままに綴っています。

知的生産のためではない知的生産の技術

あらためて考えたことがある。自分が興味を持っている対象にどんな名前が与えうるのか、という問題だ。一見すると自明なようで、その実ふよふよした感覚が漂う問題である。

たしかに私は「知的生産の技術」と呼ばれる分野に興味がある。かといって、自分は「知的生産」を志しているかといえば心もとない。少なくとも純粋に首を縦に振るのは難しい。だからそうした行為に言及するときについ、「知的生産的な行為」などと表現してしまう。「的」が多い言葉はあまりよくないとは思うのだが、そう表現せざるを得ない気持ちがそこにはあるのだ。

梅棹忠夫の『知的生産の技術』という書籍にはたしかに感銘を受けたし、影響も受けている。著者の主張は全面的に正しいとすら思う。にもかかわらず、自分は「知的生産」をやろうとしているのかというとやっぱり違う気がする。

そもそも梅棹忠夫に出会う以前から、メモをとり、ノートを書き、文章を表してきた。名前が欠落していても行われていた行為があったわけだ。梅棹の本を読んで、自分がやってきたことが「知的生産」と呼ぶことができるのだと納得したとしても、自分の目標がはじめからそこにあったとは言えない。こういう名付けと目標のズレをずっと感じていた。

■言い換え探し

一体自分は何をやっているのか。自分がやっていることを適切に呼ぶとしたら、それはどんな名前になるのか。

そんな益もない疑問を潜伏的に持ち続けていたのである。だからこそ、私は「知的生産」や「知的生産の技術」の言い換えを探していたのだろう。そうした言葉遣いにズレを感じていたからだ。しかし、そのズレの有り様を私はこれまで見誤っていた可能性がある。どういうことか。

これまでの私は、たとえばこんな問いを持っていた。「現代において知的生産の代わりになるような言葉は何か」。たしかに大切な問いではあろう。

ずっと昔に提起され、そこから少しずつ開発が進んでいった知的生産の技術は現代においても重要である。むしろ、現代においてこそ重要さが増しているとも言える。しかし「知的生産」という言葉の響きは、モダンとは言えない。そこで昔からの技術と現代を生きる人々をつなぐために新しい言葉を探す。こうした問い立てはいかにも有効なように思える。

しかし大きな問題が残る。結局のところ、その接続先の片方は「知的生産」であり続けるという問題だ。どのようにパラフレーズしたところで、言い換えられる前の「知的生産」は厳然として残る。つまりその言葉との付き合いは避けては通れない。

私がこうしたパラフレーズの探求に明け暮れて、しかしその答えにたどり着けなかったのは、この根本的な状況を直視していなかったからだろう。簡単にいえば、「私は知的生産をしているのか」という疑問だ。

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