松本人志の笑いは「失敗」に終わった
だから僕はその様子が見え始めた10年、20年前くらいから、松本人志を見ても、かつての様に面白いとは全く思えなくなっていきました。
もちろん、年末のガキ使も、水ダウも、僕は大ファンでしたが、別に松本人志それ自身に対するファンなのでは無く、その番組そのものに対するファンになっていたわけです。
そして、松本人志その人に対しては、むしろ風体に対して嫌悪の念を少しずつ抱くようになっていきました。何やら不快な気持ちが、否が応でもでてきてしまっていたのです。
これは後出しじゃんけんでも何でも無く、僕の身の回りの人ならば、そういう印象を持っていたことを知っている筈、です。
今から思えば、僕がそういう風にまっちゃんを見るようになり始めた時期と、文春が報道している性加害行動を取るようになった時期とが重なっているようにも思えます。
誠に残念です。
やはり、松本の笑いは、失敗に終わったのです。
セックスピストルズのシドや、尾崎豊の様に、若い一瞬においてだけ花開いた、長続きすることの無い、青春のはしかのようなお笑いだったのです。
無論、セックスピストルズも尾崎豊も「大成功」を納めました。
しかしその大成功は、若くしてこの世を去ったことでかろうじて保たれたものだったと言えるのでしょう。
松本人志のあのごっつええ感じ、一人ごっつの大成功は、永遠に消えて無くなることはあり得ませんが、人物としての松本人志は、神格化されることはもはや、ありえないでしょう。
誠に残念です。
上岡龍太郎の金言と「頭が上がらない師匠」の効用
例えば上岡龍太郎は生前、そもそも芸人という存在は、ヤクザと同じ、世間様からはみ出た人間であって、まともな暮らしも当たり前の筋も通せない人間の集団だと何度も力説していたことがあります。
筆者は上岡龍太郎が力説していたこの説がどの程度正しいのかを評価する情報を持ち合わせては居ませんが、おそらくはこの説は相撲やプロレスの荒くれ者の世界にも当てはめられ得るものでしょう。
だからこそ、任侠の世界も相撲の世界もプロレスの世界も、強烈な縦社会構造があり、先輩、師匠の言うことは絶対で、白を黒、黒を白といわねばならない鉄の掟があったのです。そしてそれと同じ構図が芸人の世界もあったのです。その片鱗が今、落語の世界にも残存していますが、漫才の世界もそうだったのです。
そうでもしなければ、そもそもが世間様からはみ出た人達なのだから、とんでもない悪事を働いてしまいかねない…そういう社会学的構造が、ヤクザや芸人、相撲の世界にはあったのでしょう。
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