アマゾンや楽天の登場が“とどめ”に。スーパーマーケットがこの先、生き残る道はあるのか

Tokyo/japan,March,1,,2020,Seiyu,Name,Is,Japanese,Group,Of
 

北海道と東北、信越の全17店舗の順次閉店を決めたイトーヨーカドー。西友も九州の全店舗を売却し同地域からの撤退を発表するなど、総合スーパーの苦戦が伝えられています。何がこのような状況を招いたのでしょうか。今回のメルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』ではジャーナリスト・作家として活躍中で、大手スーパーのマイカルでの勤務経験を持つ宇田川敬介さんが、国内スーパーの歴史を振り返りつつその「凋落の理由」を考察しています。

※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです

西友やイトーヨーカドーに見る小売業の変化。スーパーマーケットの栄枯盛衰

皆さんおはようございます。メルマガ主催の宇田川敬介です。

今年も様々な内容にして、少し違う観点から様々な内容を見てみたいと思います。

普段のブログとは全く関係なく、少し柔らかい内容で見てみたり、国民の慣習のことなどを見てみたいと思っております。

これからもよろしくお付き合いください。

さて今日の話題は「西友やイトーヨーカドーに見る小売業の変化」という内容で行いたいと思います。

日本の小売業

日本の小売業の変遷を簡単に見てみましょう。

まずは大戦後、日本は何もなかった、日本国土のほとんどが焦土と化しまた、生産したものはすべて戦場に送っていたので、日本にはほとんど何も残っていなかったという状況になりました。

その為に、公的に、というか小売業は当時も公的ではなく私企業が行っていましたが、日本全体として物がない時代であったと思います。

もちろん私は体験していませんが、私の父母はその時代を体験しているのでよく聞かされていました。

その時代は「闇市」というものがあり、そこで法外に高いものや、品質が安定しないものを購入するということになっていたようです。

もちろん、そのような市場ですからトラブルも多かったというように聞いています。

そののちに、徐々に、国内のものが流通するようになってゆきました。

まずは個人商店、それも生鮮三品、つまり「やさい」「さかな」「にく」から徐々に行われるようになります。

しかし、日本は戦争で多くの船が失われたばかりか、石油などもほとんどなく、また、為替も当時は1ドル360円でしたから、輸入品はすべて高級品であったといわれています。

今では意外なものが高級品であったのです。

よくたとえで出てくるのがバナナですね。

バナナは、南方の食材で船で運んでこなければなりませんから、「病気にならなければ食べることのできないもの」というような感じであったといわれています。

そのほかにも「スニーカー」や「ゴム」などが高級品でした。

これらも南方から輸入するものですからなかなか手に入らないものであるというように言われていたのです。

そこで国内で生産できるものが中心に「商店街」が成立します。

逆に、今では高級品になったものが当時は安く日常食であったこともあります。

クジラなどは、当時は大事な日本人のたんぱく源であったのですが、今では絶滅危惧種でかなり食べることが難しくなっています。

さて、商店街に行けば様々なものが手に入るというようになったのです。

まだ電気製品もなかなか手に入らないので、松下電器が「ナショナル」というような号を使っていたということになるのです。

そのようなところに出てくるのが「なんでもや」要するに、商店街のように一つ一つの店が集合になっているのではなく「ワンストップで買い物ができる」という店ができるようになったのです。

第一号といわれているのが「主婦の店ダイエー」です。

その後、様々なスーパーマーケットができてくるのです。

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