山崎和邦 週報『投機の流儀』

山崎和邦 週報『投機の流儀』

  • 投機のノウハウを知ることができる
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まずは読者の皆さんに自己紹介をお願いできますか?

父親の仕事の関係で、シンガポール生まれの長野育ち。高校卒業するまで長野にいて、その後、慶應義塾大学の経済学部に入りました。東京大学を二度受けて失敗しましてね。

慶応では「景気循環論」っていう、数学や物理学を使った非常にペダンティックな学問があったんですが、私は「それを身につければ、世の中のお金の動きが全部わかる」と不覚にも没入して(笑)、「投資量決定と景気循環」という卒業論文を書いて、それで野村證券に入りました。

山崎和邦さん

そこから長い投資人生が始まるわけですね。最初から投資の世界で生きていこうとお考えだったんですか?

ま、そうなんですが、迷った部分もありました。というのも、野村證券と同時に、当時の秀才ばっかりが行く昭和電工っていうところにも受かってたんです。しかも昭和電工、給料は野村證券の2倍(笑)。さらに、野村證券は勤めてから2年経たないと配偶者手当が出ないし、住宅手当もなかったんですが、昭和電工はすぐに配偶者手当も出るし社宅もあった。僕は勤め出したらすぐに中学時代の同級生と結婚したかったっていうのもあって、悩んだんです。

それである人に相談したら、「工場を見てこい、メーカーは工場がすべてだ」って言われたんで、昭和電工の工場を見に行ったんですが、なんか嫌になっちゃったんですよ。社員の方が案内してくれたんですけど、ダサい作業服着てて。

そのあと今度は野村證券に行ってみたんですが、対応してくれた男性社員が「やめとけ、野村にきたら、ヤクザと新聞記者と銀行員、この三つを兼務するようなもんだから、断じて昭和電工いったほうが幸せになる」なんて言うんです。それ聞いたらどうしても野村證券に入りたくなっちゃって(笑)。

それで野村證券を選んで、配属が決まって本店営業部に行ってみたら、僕に「昭和電工行け」って言ってくれた人がいて。後に社長になる鈴木さんっていう人なんですけど、僕の顔見て「バカだなー、結局こっちに来たのか」なんて言われました(笑)。

その後、同期350人中で最初に支店長になりました。最初に支店長になった人間は過去60年例外なく、在職中に死ぬか、途中で事件を起こして会社をやめるか、副社長以上になるかのどれかだったんですが、僕は二つ目になっちゃった。株価も上がってお客さんも会社もみんないい思いしたんだけれど、「みんなにいい」っていうのは証券取引法から見たらダメなんだよね。「株価操作だ」と言われて徹底的に当局に調べられたんです。

もちろん捕まりはしなかったんですが、「山崎は日の当たるところへ置いといちゃダメだ」ということで、干されてしまいました。傍系会社に行く道もありましたが、まったく日が当たらないから後先考えないで、すぐに辞めた。

でも、世の中無職じゃ通用しないですね(笑)。ローンはおりないし、マンション借りるにしても大変。当面のお金はあったから食うには困らなかったけど、いろいろ苦労しました。

その後、やっぱり野村證券を辞めて三井不動産の本店業務にいた人から「うちに来ないか」という声がかかりました。「住宅メーカーを作るから営業の束ねをやらないか、」というのでお受けしました。

そこでは最初の4ヶ月はおとなしくしてたんですが、東京支店の次長になってから、野村證券時代のやり方を導入したんですね。そしたら「三井の座敷に土足で踏み込んできた」なんて異端視されたけど、業績は上がります。それで取締役になって、常務にもなったんだけど、それ以上のポストにはつかせてくれない。何やるかわからないから、僕みたいなやつは(笑)。

そうこうしているうちに最高権力者の会長が事故で突然亡くなって社内の勢力図が一気に変わって、軍団を率いていた僕ともうひとりの常務が権力者から恐れられて子会社に出されたんだけど、そこでも僕を社長にはしなかった。実力軍団を率いていたシーザーが元老院から恐れられたのと同じで、僕ともう一人の常務は恐れられたんです。それを思えば僕は「以て瞑すべし」と観念しましたよ。そのときは、「三井ホームにおける人生も終わった」って思いましたね。

その後、大学教授になるわけですが、どういった経緯で?

なりたかったんです、大学教授(笑)。でも僕は、大学院も出てないし、むろん博士号もない。それでも、「三井ホームにおける人生も終わった」と思ったときから、「大学教授になりてーなりてー」って言ってたんですね(笑)。

そしたら、三井不動産のある人が、苫小牧駒澤大学の学長を紹介してくれたんですよ。で、まずは実績を作らなければということで、駒澤大学で「日本経済特殊講義」っていうのを非常勤講師として週2回受け持たせてもらうことになりました。もちろん会社の了解を得て、副社長やりながらです。

それから、論文を書かなければダメだと。でもそれは楽でした。というのも、書くことはいっぱいたまってましたからね。それを出すだけだから楽なんです。またそれがけっこう採用されたり論文誌に載ったりした。なぜかというと、アカデミックなものじゃなくて、株価と景気循環との関係とか、俗っぽいものだったからなんですよ(笑)。そういうのは普通の経済学者は書きませんから。

そんな経緯があって、今の大学の教授になりました。

メルマガはどのような経緯ではじめたのですか?

5年ほど前に、ある投資顧問会社の依頼で「週報」という形で毎週日曜日にウイークリー・リポートを書き始めたんですね。それが、評判になって今でも読者はますます増えているんです。

じつは、07年7月19日、まだ、日経平均が1万8000円の頃、サブプライムで株式市場が大暴落する3週間前に、ダイヤモンド社の『ZAI』という雑誌の取材に応じて「日本株は既に大天井だ。見送りだ」と答えたんです。当時は、珍説として、私の写真入りで紹介されたんですが、でも、それが現実となって、この「週報」の読者が激増したという経緯があります。

また、09年の3月には、日経平均が、7000円近かったときに「週報」で三週間続けて「今、“底割れ”が話題になっているが、今は“底割れ”でなく“底入れ”だ。今が21世紀の最後の安値だ」と、3月の7000円近辺で3週間、主張していました。

こちらも、その通りになったので、読者からはそれなりの信頼を得ていると思います。

今回は、この週報をメルマガという形で、配信していこうと思います。

なるほど。そんな山崎さんが書かれるメルマガ、どのようなものになるのでしょうか。

私の社会人人生の前半は、野村証券社員や支店長として顧客の資金で市場を学ばせてもらいました。また、後半は、三井の会社で取締役を務めながら、投資家としての自己資金を増やすために市場活動し、些少ながら金融資産を作ることができました。

さらに、現在、人生の大引け近くからは市場の研究者として、大学院の教授になって世界の金融市場と投資理論を研究してきました。

証券マン、個人投資家、研究者、という三つの立場から金融市場を述べる者は、ほとんどいませんし、また、いたとしても、そういう人は、あまり語る場をもちません。

単なる「解説や評論」なら、理論とデータがあれば誰でもできますが、市場で求められるものは「解説」ではなく「洞察」です。私のメルマガでは、その「洞察」が分かるものにしたいと願っています。

山崎和邦さん

最後に、読者に一言お願いします。

投機というのは、1つのチャンスに、投ずるっという意味ですよね。情熱的に一生懸命に、ある機会に投入するという意味ですから、人生で起こる選択肢は、全部投機なんですよ。投資でも、結婚でも事業でも、機に投ずるっていうためには、チャンスに向かって真剣に全力投入することなんですね。

それを成すにあたって最も重要なことは、理論や情報よりもじつは、「心得」です。これは、半世紀以上の体験と成果から、私は確信持って言えます。

大袈裟に言えば「投資哲学」または「相場道」といわれているものです。私にはこのような言葉を使うのが僭越に思えるので、ただの「心得」としていますが、実践ではその「心得」が何よりも大切です。毎週日曜日に配信されるメルマガを通して、その一番大切な、投機への「心得」を伝えていければと思っております。

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山崎和邦さんプロフィール

1937年シンガポール生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。野村證券入社後、1974年に同社支店長。現在武蔵野学院大学大学院教授、同大学名誉教授。大学院教授は世を忍ぶ仮の姿。実態は現職の投資家。投資歴51年、前半は野村証券で投資家の資金を運用、後半は自己資金で金融資産を構築、晩年は現役投資家で且つ「研究者」として大学院で実用経済学を講義。趣味は狩猟(長野県下伊那郡で1シーズンに鹿、猪を3~5頭)、ゴルフ(オフィシャルHDCP12)、居合(古流4段、全日本剣道連盟3段)。一番の趣味は何と言っても金融市場で金融資産を増やすこと。著書に「投機学入門-不滅の相場常勝哲学」(講談社文庫)、「投資詐欺」(同)、「株で4倍儲ける本」(中経出版)等。

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