100万分の1グラムの歯車の陰に
100万分の1の歯車を作ったのは、技術力のアピールだけが目的ではない。一桁上げようとすると、金型や成形機から製品を取り出すシステム、数える装置にいたるまで、ありとあらゆるものを開発しなければならなくなる。チリのように小さな歯車の陰に、富士山の裾野のように技術開発が広がるのである。
ちょうどNASA(米航空宇宙局)が月まで人間を送り込んだロケットを開発したのと同じである。宇宙飛行士が月に立っても、人々の生活にはなんの役にも立たないが、それに伴って幅広い裾野の技術が開発されたのである。
そうした高度の独自技術で、樹研が独占的に生産している製品の一つに、自動車のスピードメーターなど計器類に使われるステッピング・モーターの部品がある。永久磁石の寸法バラツキを吸収して自由に大きさを変えられる特殊な金型を開発し、これにプラスチックを流し込んで成形する。この部品は世界の三大自動車メーカーが採用し、樹研が独占的に供給している。近い将来に世界の自動車の50%に、この部品が使われるだろうという。
「貸し渋り」どころか「押し込まれ」
樹研はこうした桁違いの技術で、30年間に45億円の経常利益を上げた。余分な資金が10億もある。よく中小企業に対する銀行の「貸し渋り」「貸しはがし」が問題となっているが、樹研に対しては、一流の都市銀行が「借りて下さい」と頭を下げてくる。これを松浦社長は「押し込まれ」と呼んでいる。
銀行が金を貸してくれないとこぼす中小企業の社長たちに対して、松浦社長は「彼らは(バブル期の)80年代に何をしていたか、ベンツを買って毎週のようにゴルフに行っていたではないか」と言う。自前の技術もなしに、低賃金で人を雇い、安さだけが売り物で大企業の下請けをしていた中小企業は、中国に仕事を取られ、銀行からも見放されていく。
また中小企業が都市銀行と取引しないのは、銀行側が付き合ってくれないからではなく、経理への要求が激しいからである。しっかりした経理をする能力のない中小企業は、楽な信用金庫や信用組合に逃げてしまう。
松浦社長は創業当時から都市銀行と取引をしてきた。そのお陰でずいぶん経理面では鍛えられた。厳しい経理面の要求に耐えながら銀行との信用を作っていくと、銀行は「無担保でも5億円ぐらいなら用意します」と言ってくる。一流の技術と信用を持っていれば、中小企業でも堂々と一流銀行とつきあえるのである。
「機械をだます」職人の腕
「技術は人に帰属する」というのが、松浦社長の考えである。100万分の1グラムの歯車の金型を設計したのは、田中一夫という樹研で22年も働いている金型職人だ。田中ほどの職人になると、1,000分の1ミリの誤差でも触っただけで分かる。
コンピュータで制御される工作機なら、誰でも同じ物が作れると思われがちだが、そうではない。材料を削りだして金型を作っていくのだが、刃先の回転速度をどれだけにするのか、刃先の材質は何を使うのか、削っていく方向は上からか下からか、こうしたことで同じ機械を使っていても、精度はぜんぜん違ってしまう。そこが職人の腕の出番である。
樹研で使っている3,000万円もする高価な工作機械なら、もともと1万分の1ミリと高い精度を出せるように作られているが、それを職人の腕によって、さらに機械の精度以上の精密な加工をしてしまう。これを職人の世界では「機械をだます」という。こんな事ができるのは日本の職人だけだ。
これはピアノを使うのと同じだ。最近はコンピュータ制御で自動演奏できるピアノがあり、プログラムさえあればスイッチを入れるだけで演奏が始まる。しかし、バッハの楽譜を見て、それをどんな風に演奏したら良いのか、ピアノの個性を最大限に引き出しながら名演奏のプログラムを作るには、高度な腕がいる。知恵と感性と経験がものを言う世界である。樹研の職人たちがやっているのは、こういう仕事である。
だから、彼らは実によく理論も勉強もする。ある技術的問題が持ち上がった時、松浦社長は田中一夫が「この野郎、知ったかぶりをしているな」と感じたが、反論するだけの十分な知識がない。田中に負けないように、社長はその晩、家に帰ってから明け方まで勉強した。明くる日、社長がその問題をまた持ち出すと、田中の方もまた意見してくる。よく聞いてみると、昨日の知ったかぶりの意見とは違う。田中の方も帰ってから、必死で勉強したのだろう。
田中は中卒だし、松浦社長は経済学を専攻した文系である。それでも仕事の中で必死に勉強を重ねていくと、世界最初の100万分の1の歯車を作ってしまう、という点が、技術の世界の面白さであり、怖さでもある。