夢を諦めない。自腹でロケットを作った零細企業社長の奮闘記

 

「お前もきっと月に行けるぞ」

植松さんが、なぜ、それほどに「どうせ無理」という言葉をこの世からなくしたいと思っているのか。それを理解するには、植松さんの生い立ちを辿る必要がある。

植松さんは3歳の頃、お祖父さんに大切にされた。

僕はじいちゃんが大好きでした。じいちゃんは落ち着きが足りない、変な子どもだった僕を大切にしてくれたんです。そして、僕にアポロの着陸を見せてくれました。僕が3歳のときです。

 

僕はアポロの着陸そのものを覚えてはいません。僕が覚えているのはじいちゃんのあぐらの中の温もりです。じいちゃんのあぐらの中に座った僕にテレビを見せながら、「人が月を歩いているぞ。すごい時代になったぞ。お前もきっと月に行けるぞ」とじいちゃんは言っていました。

 

自分が大好きだったじいちゃんの、今まで見たこともない喜びぶりが僕の中に記憶されました。だから、僕は飛行機やロケットが好きになったんです。飛行機の本を手にとり、飛行機の名前を覚えたらじいちゃんが喜んだ、ただそれだけで、僕は飛行機やロケットが大好きになったんです。
(『NASAより宇宙に近い町工場』植松努 著/ディスカヴァー・トゥエンティワン)

3歳の子どもでも、大好きな人が喜んでくれることをしようとする。それがきっかけだった。

「どうせ無理」

小学生の頃は、テレビで『海底少年マリン』や『海のトリトン』を見て、潜水艦や海の中が大好きになった。美しい海の中を行く潜水艦に憧れを持った

そこで6年生の時に、「ぼくの夢、わたしの夢」と題された卒業文集の中で「自分のつくった潜水艦で世界の海を旅したい」と書いたら、先生に呼び出しを食らった。「他の子どもはちゃんと職業のことを書いているのに、おまえはこんなものでいいのか? こんな、できもしない、かなわない夢を書いていていいのか?」と言われた。

「ぼくの夢、わたしの夢」のコーナーに自分の夢を書いて、なぜ怒られなければいけないんだろうと、思ったという。これが「どうせ無理」という言葉で痛い目にあった最初の経験だった。

中学校の進路相談の時間に、先生から「おまえは将来どうするんだ?」と聞かれたので、「飛行機ロケットの仕事がしたいです」と胸を張って答えたら、「芦別に生まれた段階で無理だ」と言われた。その先生は、こう言った。

飛行機やロケットの仕事をするためには東大に入らなければいけない。おまえの頭では入れるわけがない。芦別という町から東大に行った人間は一人もいない。そんなバカなことを考えている暇があったら、芦別高校に行くのか、芦別工業高校に行くのかをよく考えて選べ。
(同上)

「ライト兄弟は東大に行ってない」

植松さんは、飛行機やロケットの仕事をするためには、本当に東大へいかなきゃ駄目なのかな、と考えた。しかし、考えてみたら、飛行機を発明したライト兄弟は東大に行ってない。だから、関係ないやと思って、自分で飛行機の勉強をしようと思った

飛行機に関する外国の文献を辞書を引き引き読んだ。航空用語はたくさん覚えたが、そういう単語は中学や高校の試験には全然出てこない。航空工学で使われる数学も自分なりに勉強したが、それも試験には出てこない。だから、試験では赤点ばかりだった

大学受験をしようと思ったら、高校の進路指導の先生は、おまえには絶対無理だと言われた。しかし、奇跡的に北見工業大学に受かった。そうしたら、そこで学ぶ航空力学や流体力学は、自分なりに勉強したこと、そのものだった。中学高校では赤点王だったのに、大学に行ったら勉強しなくともほとんど100点がとれるようになっていた

それでも先生方は「おまえはこの大学に来た段階で、残念だけど飛行機の仕事は無理だ」と言う。「えっ、うそ!」と思った。先生方は、ここは国立の工業系大学で偏差値が一番低いから、無理だという。同級生たちは、もっといい工業大学を受けたのに落ちたので、やむなくこの大学に来た人が大半で、「俺の人生はもう終わった」などとみんな言っている。

それでも植松さんは飛行機の勉強を続けた。周りがもうダメだと言ったからといって自分もダメだとは限らない、と思って。

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