夢を諦めない。自腹でロケットを作った零細企業社長の奮闘記

 

飛行機の設計をしながら飛行機が好きではない人たち

「どうせ無理」と言われながらも、あきらめずにやってきた植松さんは、ついに名古屋で飛行機をつくる会社に就職した。かつて世界一のゼロ戦を開発したた会社である。

植松さんはそこで様々な航空機の開発に関わることができた。しかし、子どもの頃からの夢をせっかく実現できたのに、わずか5年半で辞めてしまう。

なぜなら、その職場に飛行機が好きではない人たちが急増してきたからです。

 

飛行機の設計の仕事をしているにもかかわらず、彼らは飛行機の雑誌を読もうともしませんでした。彼らは飛行場に行ってもわくわくしないんです。そして、ただ言われたことを言われた通りにやるだけでした。…

 

好きという心がなければ、よりよくすることはできません。だから、指示をされないと何もできなくなるんです。…

 

彼らが悪いのではなくて、彼らから好きという心を奪ってしまった仕組みに問題があります。

彼らも植松さんのように、子どもの頃には「自分のつくった潜水艦で世界の海を旅したい」というような夢を持っていたはずだ。しかし、「こんな、できもしない、かなわない夢を書いていていいのか?」と言う声に従って、一流校をめざして、勉強に励んできたのだろう。

その結果、一流企業に勤めることができたが、その時には、すでに幼い頃の夢は枯れてしまっている。自分自身の夢を持たない人たちは、指示待ち族にならざるを得ない。

「えーっ、宇宙開発なんか、やったことないからできません」

「今度、ロケット作ることにした」と植松さんは、従業員たちに言った。故郷で父親がやっていた植松電機に入り、パワーショベルにつけるマグネットを開発して、売上を伸ばした後である。

皆は「えーっ、宇宙開発なんか、やったことないからできません」という反応だった。これも「どうせ無理」という声である。

そこで植松さんは一人でロケットエンジンを作り始めた。それがやっと動いて、美しい炎と轟音を発した時、彼らは「わっ、ロケットエンジンってつくれるんだ」と知った。自分たちにもできるかもしれない、と取り組み始めたら、たった半年でロケットを作れるようになった

現在、20人ほどいる従業員のほとんどは大学を出ていない。もとはアメ屋や焼き肉屋でバイトをしていた若者たちだ。そういう人たちが本業の傍らで、今や一生懸命に宇宙開発をしている。最近は国の研究機関の人たちも大勢訪ねてくるが、そういう超エリートたちとも、平然と会議をしている。

また社員たちは分からないことにも挑戦する姿勢を身につけたので、近所の農家の人と一緒に、農業の機械の開発を勝手に始めたりしている。

人間、夢を持てばそれに向かって自然に努力をしてしまう。そして、自分の持つ可能性を押し広げていく。学歴がないから、頭が悪いから、中小企業だから「どうせ無理」という言葉が、その可能性を殺してしまっていたのである。

逆に、成績を良くして一流企業さえに入れば、という形で、子どもの頃の夢や憧れをつぶしてしまう事が、飛行機の設計をしながら、飛行場に行ってもわくわくしない指示待ち族を作り出す。

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