歴史は繰り返すか。東欧諸国が再び「保守化」へ舵を切り始めた訳

 

前回掲載の「また壁が立つか。冷戦終結30年で右傾化する世界と暗い日本の未来」でもお伝えした通り、ベルリンの壁が崩壊し東欧諸国が民主化してから30年が経過した現在、再び押し寄せている右傾化の波。このまま本当に東欧は保守化に突き進むのでしょうか。数々のメディアで活躍する嶌信彦さんは今回、自身の無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』で、東欧民主化当時に現地で目の当たりにした改革への熱気を記しています。

「壁」崩壊を現場で目撃

ベルリンの壁が崩壊して、2019年で30年となった。東欧の旅行の自由化、国境開放でベルリンの壁が事実上崩壊したのは1989年11月だが、東西を分けていた象徴的なブランデンブルク門が開通したのは12月末だった。実は、私は89年末から90年正月にかけ、旧ソ連、東西ベルリンとポーランド、チェコスロバキアの東欧3ヵ国を取材して歩いたので“壁崩壊30年”のニュースは特別感慨深く感じた。

最初に足を踏み入れた旧ソ連は、その数年前に訪れた時とは全く別の姿に見えた。モスクワ駅の裏は闇市のようで、国営マーケットの売り場には売るべき製品がほとんどなかった。肉や野菜の必需品は、近郊の農家の人が小型トラックなどに乗せて売りに来ていた。人々はトラックの周りに集まり品物を買っていたが、肉は機械でスライスしたものはほとんどなく、ナタでぶつ切りにしたものを量り売りする光景が目立った。日本の終戦時の闇市などを彷彿とさせるようだった。
東西ベルリンを仕切るゲートは残っており、チェックする役人らもいたが、パスポートを見せると自由に通してくれた。壁はまだ長く残っていたが往来はほとんど自由に出来た。

12月21日の夜にベルリンの象徴であったブランデンブルク門の周囲の壁が取り壊された。そこは東西のベルリン市民で熱気にあふれ、門の上まで登った人達も大勢いた。テレビで何度も見たベルリンの壁崩壊当日の市民達の歴史的興奮を、実際にその群集の中に交じって現場で見ることが出来たのは記者冥利に尽きる思いだった。

ベルリンの壁崩壊のニュースはその後、ことあることに何度も見ており30年経ったが、あの壁をドリルで壊している光景と、一夜明けて門が開通した時に続々と集まってきた声はまだ昨日のことのように耳に残っている。

東か西か、人生の選択

東ドイツの住人に「なぜあなたは東ベルリンを住居に選んだのか」と聞くと、「第二次大戦直後は東ベルリンの方が豊かだと言われていたから…」と答えたが、「実際に住んでみると旅行などは自由に出来ず生活は不便でストレスが多かった」と漏らす。「西ベルリンを選んで住んでいた方がよかった」とか、「事前のウワサと実際に生活した実情はまるで違っていた」と述べていた人が多かった。

特に「戦後10年もすると西ドイツのほうが豊かになってきたので、自分の選択の間違いに悔やんだ」と言う。また、壁の側面には東ベルリンの生活に耐え切れず、壁を越えて西に舞い戻ろうとして殺害された人々の名前が刻まれた場所もあり、当時は東から西へ入り込むことは命がけだったのだなということを実感させられた。チェックポイントをくぐり抜けるため、自動車の下に隠れて決行した人々もいたと聞いた。

マゾビエツキ首相、ハベル大統領と会う

私はベルリンから西側に復帰したポーランド、チェコスロバキアに行き、両国の要人たちのインタビューを試みた。自由化を目指し、ソ連の統治下から離れたばかりのポーランドやチェコは貧しかったが、街の雰囲気は少しずつながら変わっていた。ポーランドでは、新しくマゾビエツキ氏が首相になっていたし、チェコではもう2-3日で劇作家のハベル氏が大統領になるだろう、とウワサされていた。

私は両氏にインタビューをし、今後の国づくりの方向や日本への期待、役割などを開きたいと考え、インタビューの手づるを探した。すると、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどには、かつて日本で学生運動や安保闘争を闘った活動家が、比較的自由だった東欧に来て住んでいるという話を聞いた。彼らは東欧の自由化を願う現地の活動家たちと連絡を取り合うとともに、日本人の活動家たちも国境を越えてネットワークを持っているという。

そこで、その日本人活動家たちを探し出し、現地の事情を聞くと共に、東欧で自由化活動を行なっていた人たちへの紹介や橋渡しを依頼した。彼らもまた日本を出てからの日本の実情や日本の学生運動、左派活動などの情報を知りたがっていたので徹夜で話し込んだりした。

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