【第5回】俺たちは死を前に後悔するか?春日武彦✕穂村弘「お試しがあればいいのに」

 

自己肯定感があれば、後悔なく死ねる?

穂村 そういえば、作家の高橋源一郎さんが、若い頃より死ぬのが少しずつだけど怖くなくなってきた、と何かで書いてたな。仕事に限らず、たくさん経験を積んだことで、わだかまりとか執着が少しずつ薄れてきた、みたいなことなのかな。こうした心持ちを極められれば、死を前にしても後悔しないかもしれないね。あと、渡部昇一だったかの本には95歳を超えると死ぬのが怖くなくなるらしいからそこを目指すって書いてあった。

春日 でも、俺なんて高橋さんと年齢が同じだけど、全然そんなふうに思えないけどね。だから、この先もどうにかなるという気がまるでしないんだよなぁ。

穂村 それは、いわゆる自己肯定感みたいなものが持てない、ということ?

春日 そうだね。俺が書くものは、誰もが素晴らしく美味しいと思うような「美食」足り得ない、という感覚があって。どちらかというと、ジャンクフードとか珍味みたいな存在だと思ってるからさ。医者だけど文学とかのことにも言及するキッチュな存在としての需要、みたいなのはすごく自覚しているわけ。で、「それでもいいじゃないか」と自分に言い聞かせてきたし、ある程度納得もしてるんだけど、突然それがすごくイヤになる瞬間があるのよ。所詮俺はイロモノで終わるのかよ、って。そうなるともう、死んでも死にきれない、みたいな感情が生まれてくるわけ(笑)。

穂村 自己肯定感みたいなものって、個人差もあるんでしょ?

春日 まあ、そうだね。

穂村 他人は関係なく、自分が良いと思えればそれで良い、というか。短歌の世界で言うと、塚本邦雄(1920〜2005年)なんかは、活動していた当時の感覚では異端としか言えない作風だったけど、むしろそのことによって自己肯定していたようなフシがある。あらゆるジャンルにおいて、世間の大多数が良しと思うことと自分がイコールであることを喜ぶ人もいるけど、彼はそれを強く拒否して、自分こそが、文学のあるべき姿、文学の本当の中心であるという強烈な自負があったと思うんだ。だから「負数の王」って言われてたよ。

春日 俺もそこまで超然とできたらいいんだけどね。

穂村 現代においては韻文はそもそもマイナーだからね。でも、翻って自分のこととして考えると、もっと個人的な形での「自分さえ良ければそれでいい」なんだよね。前回言ったみたいに、理想の個人図書館とか、自分の中で完結する、安らかでノイズのない場所をイメージできさえすればいい。その程度のものなんだよね。

春日 俺の場合は、自己肯定っていうのもあるんだけど、母親というのが未だに大きな存在でさ、自分が書いたものを彼女に褒めてもらえるかどうか、というのも大きいんだよね。もう死んでるから、現実にそれは不可能なんだけどさ。

穂村 褒めてくれるのは、他の人じゃ駄目なの?

春日 うん。で、その母親の愛情というのは、いわば「取引」なんだよね。こっちが成果を上げなければ、その分愛情は貰えないというシステムなの。

穂村 いわゆる「無償の愛」じゃないってことね。

春日 そうそう、親子だけど有償なんだよ(笑)。と冗談のように話しているけど、これはけっこう本気で思ってるんだよね。結局、俺は一生母親から逃れられません、って話なのかもしれない。というわけで俺は、今のところ後悔なく死ねる気がまったくしないんだよね。

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