任命拒否の本質隠しか?菅政権が日本学術会議を解体したい真の理由

 

それにしても「総合的、俯瞰的活動を確保」するための人事って何なのか。そんなもの、日本学術会議法に定められた会員選定基準と関係ないではないか。

日本学術会議は、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦し、それに基づいて内閣総理大臣が任命する。
(日本学術会議法7条、17条)

優れた研究又は業績がある科学者。それ以外に、判断基準などないはずだ。ようするに、政治権力者の使う「総合的」「俯瞰的」は、政治的判断ということにすぎない。恣意的な政治行動をごまかす言葉だ。

9日のインタビューでも、菅首相は実によくこれらの言葉を使った。

「俯瞰的な視点を持って社会的課題に向き合うことが、できる制度、できる人材が望ましい」

「日本学術会議は総合的、俯瞰的な観点から活動すること、こうしたことが求められてきています」

「総合的、俯瞰的な活動すなわち、広い視野に立って、バランスの取れる活動を行って、国の予算を投じる機関として、国民に理解される存在であるべき」

数え上げればまだまだある。同じ中身の繰り返しだ。6人の具体的な除外理由を説明しないための言葉が「総合的」「俯瞰的」なのである。何度聞かれても、それを言うしかない。

日本学術会議は、候補者選考にあたって、論文や特許などの業績を重視する。個人の主義や信条は様々だが、学問の世界における評価というものはあるていど客観化できる。任命拒否された6人は言うまでもなく学問的業績が評価されたのである。それをくつがえす理由などあるはずがない。

「総合的」「俯瞰的」について大西隆元日本学術会議会長は「第一義的には、ある会員がではなく、組織のあり方が総合的、俯瞰的でなければならないと思っている。色々な人がいることによって総合的であり俯瞰的になりうる」と語っている。

こういう意味でならわかるのだが、6人の任命を拒否した件についての文脈で用いられると、6人が総合的、俯瞰的視点を持っていないとか、この6人が会員になれば、学術会議全体の総合的、俯瞰的立場が失われると言っているように受け取れる。そう思うのなら、その理由を具体的にきちんと説明すればいいのだ。

つまるところ、まともな理屈ではかなわないから、そもそも学術会議は必要なのかとか、行政改革の対象にすべきではないか、という話にすり替えるのだ。

それを援護射撃するかのように、学術会議をめぐる実にさまざまなデマが一部の自民党議員や、右派論客から流され、ネット上で拡散された。

お粗末な例をあげるなら、日本学術会議の会員はみんな日本学士院の会員になって、年金をもらえるというのがある。

3日のツイッター投稿で、自民党の長島昭久衆院議員。「OBが所属する日本学士院へ年間6億円も支出」「その3分の2を財源に終身年金が給付されている」。

5日のフジテレビ『バイキングMORE』で平井文夫上席解説委員。「この人たち、6年ここで働いたら、そのあと学士院ってところに行って、年間250万円年金もらえるんですよ。死ぬまで。皆さんの税金から、だいたい」。

130人の学士院会員には学術会議OBも三十数人はいるが、ごく一部である。むろん、学術会議とは無関係の審査で学士院会員は選ばれているのだ。

ネットで間違いを指摘され、長島氏、平井氏ともにあえなく撃沈。すごすごと訂正やら謝罪に追い込まれた。

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