世界中の人がコロナ禍で気づいてしまった「流行なんていらない」という真実

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ありとあらゆる常識を覆した新型コロナウイルス感染症ですが、ファッションの世界もその影響からは逃れられなかったようです。今回のメルマガ『j-fashion journal』ではファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、ファッションのとそのビジネスの歴史を詳細に振り返るとともに、コロナ禍が変えたファッションに対する人々の意識を解説。さらに「アパレル業界の今後」についても考察しています。

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コロナ禍で世界が気づいてしまったファッションの真実。本当に「流行」は必要なのか

1.ファッションは金持ちが楽しむもの?

ファッションを楽しむという行為、あるいは衣装を競い合うという楽しみは、もっぱら上流階級のものだった。

ファッションは常に変化するのが特徴だ。シーズン毎に新しいコレクションが発表され、それをお金持ちが注文する。

高級注文服と訳されるオートクチュールが存在するのは、オペラ座がある都市と言われている。オペラの劇場、オペラ歌手、オーケストラが存続するということは、それらを支える富裕層が一定以上存在することに他ならない。

かつて、多くのファッションデザイナーは、上流階級の一員だった。外交官の娘が、世界中を旅行して、世界中の文化や芸術に触れてコレクションを発表し、デザイナーとしてデビューする。こんなプロフィールを持つデザイナーが多かった。

外交官は上流階級に所属しており、その親戚、友人、知人等も上流階級。上流階級が上流階級相手の商売をする。それがファッションビジネスの原点でもある。

2.大量生産による大衆ファッション

西欧におけるファンションの大衆化は米国から始まった。

米国のアパレル産業は、パリでコレクションを買いつけ、それを大量生産し、安価な製品として販売することで成長した。パリにとって、アメリカのバイヤーは最大の顧客であると同時に、パリのファッション産業と競合するアメリカアパレル業界の代表でもあった。そのため一時期、パリから米国向けの輸出は、その他の国よりも1カ月遅らせたほどだ。

この米国の既製服業界のノウハウは、日米繊維交渉決裂後、1970年頃に日本に伝えられた。当時の日本の繊維産業は盛んに対米輸出をしていた。しかし、米国政府が国内繊維産業からの陳情を受け、日本政府に対米輸出の制限を主張し、数年の貿易交渉の末、日本側の自主規制で決着した。そのため、日本の繊維産業は輸出から国内需要への転換を求められ、その手段として、米国既製服産業のノウハウを導入した。

ここから、日本のアパレル企業はライセンスブランド中心のビジネスモデルを採用し、多ブランド戦略によって百貨店の売場シェアを確保し、急激に成長した。

そして、現在に到るアパレル企業の業態が確立した。欧米のコレクション情報、トレンド情報を元に、年2回のコレクションを月毎の商品計画に組み直し、デザインバリエーションを増やし、週単位のきめ細かな商品展開計画に落しこんでいった。

そして、消費者は新しいシーズンの到来と共に、新しいデザインの商品を購入するという購買習慣を身につけた。

この手法はファストファッションに引き継がれ、世界に拡大した。その結果、起きたことは、世界的なアパレル製品価格の下落と、人件費の低い新興国への生産拠点の移動。既存アパレル流通の破壊とグローバル企業による寡占化である。各国の付加価値の高い規模の小さいアパレル企業は次々と淘汰された。そして、画一的なトレンド情報に基づく同質化した商品が市場にあふれ、ファッションの魅力は希薄になった。同時に、単価の下落に伴う生産数量の増加と大量廃棄が社会問題化したのである。

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