なぜプーチンはソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と言ったのか

 

ロシアの動き

NATOについての思いは、ロシアの間でも大きく揺らいだ。その“主人公”は、エリツィン大統領である。

冷戦崩壊直後のロシア外交は、コズイレフ外相の下、親米・親西欧路線にたち、あるいはクレムリン自体がロシアの将来のNATOへの加盟を望んでいた段階では、しかしNATOは東方への拡大を急ぐ必要はなかった。

しかし、徐々にロシアの政治的・経済的不安定さが浮き彫りとなり、ロシア外交の親欧米路線が変化。すると、とくにクリントン米大統領は、エリツィン政権自体が、国内問題として窮地に立つことを懸念した。

そのため、クリントン政権の発足と同時に米国の対露政策に参画し、その後、国務副長官に就任するストロープ・タルボットは、

「より少ないショックとより多い治療(セラピー)を」

をモットーに、「ロシア優先」政策を進めた。

一方で、エリツィンは、NATOへの態度を一変していく。事実、エリツィン大統領は1993年8月下旬にポーランドを公式訪問した際、8月25日に出されたロシアとポーランドとの「共同声明」では、ポーランドのワレサ大統領がNATO加盟を望むことを表明したのを受け、エリツィンはこれを、

「理解を持って受け入れる」

とともに、

「主権国家であるポーランドのこの決定は、長期的には他国の利益に、したがってロシアの利益にも矛盾しない」

と語っていた。

ところが、それから5週間も経たない9月30日、エリツィンは米・英・仏・独の西側4カ国に向けた書簡において、NATOの東方拡大を容認しないことを明言していた。

なぜ、エリツィンの考えは一変したのか。この書簡が到着する2日前、エリツィン政権はロシアの議会に立て篭っていた政敵を砲撃し、議決も解散、戒厳令まで出していた。このようなロシアの国内情勢が、クレムリンにNATOへの政策を一変させた可能性はある。

同時に、このエリツィンの行為は、東欧・中欧諸国におけるロシア脅威論を生み出し、NATOへ“思い”を加速していく。すると、クリントン大統領の姿勢も変化する。

クリントンは、

「NATOが、欧州安全保障の基礎でありつづける」

と語りつつ、同盟義務を果たす用意のある欧州諸国に対してNATOは門戸を閉ざさないし、NATO外のいかなる国もNATO拡大に対する「拒否権」を有しない、と演説した。

対して、エリツィンも強く応酬。冷戦を終えたばかりの欧州が、早くも「冷たい平和の危険」に見舞われているとし、

「なぜ、不信種を播くのか、我々はもはや敵ではないはずだ。…NATOの境界をロシア国境まで押し進めるというのなら、これだけは申し上げる。ロシアの民主主義を埋葬するのは、まだ早過ぎる」

と語った。この、“すれ違い”が、現在のウクライナ戦争の遠因ともなったといえる。

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