なぜプーチンはソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と言ったのか

 

しかしNATOは、東方へ拡大する

NATOの拡大は、「東側をどうするか」という議論から始まった。冷戦の終結は、NATOも歓迎するところ。

しかし、1991年7月にワルシャワ条約機構が解散し、東欧・中央ヨーロッパ諸国の安全保障が一切、つながりをもたないことは問題だった。この地域で何らかの紛争や不安定化が生じる危険性は、十分に予測された。

さらに1992年8月にモスクワで反ゴルバチョフのクーデター騒ぎがあり、ソ連自体の権力の不安定化が周辺諸国に輸出しかねない。

そこで考案されたのが、「北大西洋協力理事会(NACC)」であった。これは、1991年に11月にローマで開かれたNATO加盟諸国首脳会議による、「平和と協力に関するローマ宣言」の中で、同年12月に発足させることが提案された。

それは、具体的には今後、将来にわたり不透明なソ連、東欧諸国の外相、大使、専門家などをNATO側と一堂に会する協議を設け、旧東側全体を安定化させるというもの。ところが、このNACC自体が、すぐさま難局に直面する。

ちょうど、ソ連が「連邦」として、解体の危機に直面していたのだ。実際、NACCの創設会合は12月20日にブリュッセルで開かれたが、翌21日には現実にソ連は解体、新たに12の独立国が誕生する見込みとなった。

ただ、その瞬間、創設会合にソ連の外相代理として出席した駐ベルギー大使は、「ソ連は存在することをやめた」と言明、エリツィン大統領のNATO宛ての親書をその場で読み上げ、そこには、ロシアが「長期目標として」、NATOに加盟する希望も記されていた。

しかし、ソ連の崩壊とともに問題は複雑化。NACCへの参加を希望する国は当初の25カ国から34カ国へ増え、数字上、現状のNATO側の方が少数となってしまった。

さらに年が明け、1993年にはチェコ共和国とスロバキア共和国、またジョージア(グルジア)、カザフスタンも加わり、NACCへ参加しようとする国は、37カ国まで増えていく。

問題はより深刻化、東側諸国の中には、NACCへの加盟だけでは満足せず、NATOへの「直接加盟」を要望する国も現れた。ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーだった。

ただ、NATO側は当初、NATO本体の東方への拡大には慎重な姿勢を示す。事実、1991年10月に米国ブッシュ(父)大統領は、チェコのハヴェル大統領からのNATO加盟の要望を受けた際にも、「現時点では望ましくない」と拒絶した。

その代わりとして提案したのが、「平和のためのパートナーシップ」(PEP)である。このPEPが受け入れられた背景には、「将来のNATO加盟国」の準備段階として機能したからだ。しかし、このことが、結果的にロシアの不信感を生み出すこととなる。

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