「ゲゲゲの鬼太郎」から「手のひらを太陽に」「いい湯だな」「チョコレートは明治」まで。没後30年を迎えた作曲家・いずみたく作品で振り返る、日本のスタンダード・ソングたち

2022.05.11
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by gyouza(まぐまぐ編集部)
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あなたは「いずみたく」という作曲家の名前を知っているだろうか? 昭和生まれの人々にはお馴染みかもしれないが、たとえその名を知らない若い世代でも、彼の作品は誰でも一度は耳にしたことがあるはずだ。

「見上げてごらん夜の星を」「手のひらを太陽に」「いい湯だな」「ゲゲゲの鬼太郎」「ふれあい」「徹子の部屋のテーマ」「CM ハトヤの唄」「恋の季節」「夜明けのスキャット」「CM 明治チョコレート・テーマ」「太陽がくれた季節」etc…作曲家・いずみたくが遺した今も歌い継がれる名曲は枚挙に暇がない。

分かりやすく耳に残るメロディーという特徴はもちろん、時代を超えた「新しさ」と昔から伝わる民謡のような「懐かしさ」という、一見矛盾しているように思える魅力を内包した彼の作品群は、昭和から平成そして令和となった今でも決して「古くならない」のだから不思議だ。いずみの作曲作品は生涯1万曲を超えると言われている。

そんな昭和を代表するメロディー・メイカーのひとり、いずみたくが亡くなってから、5月11日の本日ちょうど30年目を迎えるが、彼の遺した名曲たちは、なぜ今なお日本のスタンダード・ソングとして愛され続けているのだろうか。4月には5枚組CD+DVDのボックスセット『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』(ビクターエンターテイメント)も発売され注目が集まっている「作曲家・いずみたく」。没後30年という節目の日に、いずみ作品の魅力について、関係者からの証言などをもとに駆け足で辿ってみたい。

作曲家・いずみたく、その生い立ちと音楽活動

いずみたく(本名・今泉隆雄)は、1930(昭和5)年1月20日、東京・荒川区日暮里生まれ。一家は「五軒長屋」(今で言うところの2DKの団地住まい)で母の弟妹と祖母を加えた8人暮らしだったという。そんな賑やかな自宅にはポータブル蓄音機と母が収集したレコードが豊富に揃っていたといい、この環境が後の「作曲家・いずみたく」を作り上げたと言っても過言ではない。

14歳のとき都内の旧制中学から仙台陸軍幼年学校へ転属を志願し、軍人になることを決意したいずみは、同校に合格し寮生活に。しかし軍歌のメロディが性に合わず、軍歌の練習が一番苦手だったという。しかし、クラシックレコードを聴き、作曲やピアノ練習の時間になると、周囲が驚くほどの才能を発揮したそうだ。

やがて終戦を迎え、「特攻隊員として死ぬこと」を夢見ていたいずみは、戦時中とは真逆の「戦後の平和」による虚無感が重くのしかかり、苛立つ毎日を闇市の徘徊や映画鑑賞で潰しかなかったという。しかし、復学した旧制中学で演劇部に所属したことから、芝居に興味を持ち始め、鎌倉で開校した高等教育のための私立学校「鎌倉アカデミア」の演劇科に入学。同校で同期の前田武彦(タレント・放送作家・司会者)と出会い、前田の影響でジャズに傾倒するようになったという。その後、前田と「劇団小熊座」を創設し、いずみが脚本と演出、前田が主演で全国各地を上演して回るように。

「いずみたく」の誕生

そんな日々の中で、オペレッタ(普通のせりふと歌のまじった、軽い内容のオペラ)と出会い、感動のあまり繰り返し観賞した舞台のメロディを記憶するようになり、同時にジャズの楽曲をハーモニカで練習しながら紙にピアノの鍵盤を描いてバイエルの練習も始めたという。しかし、鎌倉アカデミアが経済困難などの理由で落ち着かなくなったことを機に、中央演劇学校・舞台芸術学院へ入学。声楽や体操、ダンス、アコーディオン演奏の技術を習得した。この頃、「和泉卓」(いずみたく)という芸名を名乗りはじめたという。

同校卒業後は、演劇集団劇座を結成し、そのかたわら生活費をかせぐためにタクシー運転手、トラック運転手などの職に就いた。仕事中に音楽を聴き、休憩中にアコーディオンを練習する日々をおくりながら、独学で作曲と管弦楽法を学び、ピアノの練習や作曲などに全神経を集中させていたという。

転機は三木鶏郎。CMソングから人気作曲家へ

27歳となった1957年、朝日放送(ABC)のホームソングコンクールに応募した「ぶどう」が入賞、それを聴いた審査員のひとり三木鶏郎(作詞・作曲家、放送作家、構成作家、演出家。ラジオ・テレビの主題歌やCMソングの制作、バラエティ番組の雛形を作った人物として知られる)からの誘いで、三木が主宰の冗談工房、主に音楽工房で音楽の仕事に従事することに。同所で盟友となる作家・野坂昭如と出会い、同所を2人そろって解雇されたのちに野坂らと「国際芸術協会」なる製作会社を設立。5年間で500曲近いCMソングを世に送り出して解散した。

撮影:安念 勉

撮影:安念 勉

1962年には、ついに自身の会社である「有限会社いずみミュージックオフィス」(現・株式会社オールスタッフ)を設立。歌謡曲界でヒット曲を連発しながら、自作ミュージカル公演や自身のリサイタルなどで大活躍する。作曲した作品で日本レコード大賞など数々の有名賞を受賞し、1969年には自身のレコード会社「フォンテーヌ・レコードkk」を設立。1975年には念願の「いずみたくミュージックアカデミー」を設立し、2年後にはそこで育てたメンバーを中心にミュージカル集団「いずみたくフォーリーズ」を結成し、劇団運営の才覚も発揮した。

議員と作曲家という“二足のわらじ”。そして、突然の死

ミュージカル『歌麿』は1988年に全米6都市で16公演を実現。その翌89年には、友人の参院二院クラブ青島幸男が議員辞職したことにともない、参議院議員に繰り上げ当選。政治家と作曲家という「二足のわらじ」で多忙を極めたが、3年後の1992年5月11日、動脈瘤破裂のため急逝した(享年62歳)。絶筆は、ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』の挿入歌「進め!アンパンマン号」で、鉛筆を持つ力さえなくなったいずみが、夫人にメロディを聞かせて採譜させたものだったという。今年2022年は、そんないずみが亡くなって30年という節目を迎えたが、いまなお彼の遺した多くの作品は、現代の歌い手たちによって歌い継がれている。

参考資料:『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』特製ブックレット(2022)

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