徴用工「解決案」に反発の声も。なぜ日韓関係は侮蔑を伴うほどに悪化したのか?

 

なぜ「朝鮮通信使」は断絶してしまったのか

まず日韓関係ですが、秀吉がぶっ壊して最悪になっていた関係を、修復したのは徳川政権でした。天海僧都が本当に明智であったのかは別としても、天海と家康を軸とした新政権の国家意思として、韓国との関係修復は国是となっていたのでした。徳川期には朝鮮通信使が何度も来日しています。

問題はこの朝鮮通信使がどうして断絶したのかという点です。1811年に、11代将軍家斉の就任を祝う使節が対馬に留め置かれて、以降は断絶となりました。その理由に関しての学説が定まっていません。双方の財政危機という理由はあったようですが、その他に安全保障上の理由としては、「韓国が欧米列強を警戒し、より鎖国政策を強化した」「日本側が同様に鎖国政策を強化した」という説があります。

具体的には、日本として清朝の西域への拡張政策を察知しており、万が一にも韓国が尖兵として清朝の侵略があってはいけないと警戒した可能性、その他にはこの時期に既に韓国にロシアの調略が入っていたとして、日本側が疑念を抱いていた可能性などがあります。反対に、韓国の警戒姿勢にも、とにかく危機を察知して鎖国を強化したということが考えられます。

日韓の歴史認識のズレに対しては、日韓の歴史学者が共同で研究を行って双方の世論に共通認識を作るべきという議論があります。しかしながら、この方針については、残念ながら現時点では目立った成果は上がっていません。であるならば、この「朝鮮通信使の断絶」について、共同で研究するというのは大切なように思います。

「当時の朝鮮王朝は保守的で無知」の思い違い

もう一つ気になる「前史」としては、韓国が鎖国を継続した理由です。日本が鎖国を放棄したのは、幕府が抗戦を放棄し、抗戦を主張した薩長が「攘夷」に失敗して欧州列強の実力を知り開国に転じたからです。黒船が来た1853年から、わずか15年で明治維新になる、そのような激動はこの開国という問題に集約されたと言っていいでしょう。

では、どうして同じ時期に韓国は悠然と鎖国を続けて近代化を拒否していたのか、またできていたのか、この問題について、明治の日本、そして現在も多くの人は「当時の朝鮮王朝が保守的で無知であった」というような理解をしています。

ですが、そうとも言えないのです。具体的には、1866年の「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」事件と、1871年の「辛未洋擾(しんみようじょう)」事件です。前者は、フランスとの小規模な戦闘、後者はアメリカとのもう少し規模の大きな戦闘でした。

フランスとの事件は、その直前に国王の父として政権を掌握した興宣大院君が、徹底的なキリスト教弾圧を行って、フランス人宣教師などを虐殺したのですが、フランスはこれに怒って海軍を派遣したのでした。ですが、フランスは朝鮮半島を奪取するなどと大言壮語した割には中途半端な兵力しか送らず、韓国との戦争に敗けてしまいます。

直後に普仏戦争でプロシャに敗れ、ナポレオン3世政権は崩壊、そんなタイミングではフランスには韓国征服の軍隊を再度送ることはできませんでした。つまり事実上、フランスは敗走した格好となったのでした。ということは、興宣大院君は「日本のできなかった攘夷に成功」したばかりか、カトリックへの大弾圧を正当化するに至ったのでした。

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