一方、英明な殿さまも時に煙たがられ、押込の対象になりました。その実例があります。
三河岡崎藩主、水野忠辰(ただとき)は傾いた藩の財政を建て直し、藩政改革に大鉈を振るいました。自ら質素倹約に努め、殖産を振興し、財政再建を果たします。家臣たちの借金を藩が肩代わりし、農民には年貢を軽減するまでに再建は成功し、領民から感謝されたのです。
ところが、重臣たちの評判はひどいものでした。忠辰は改革を推進する上で能力のある者を抜擢しました。従来からの身分秩序を無視した人事を行った為に、門閥を構成する重臣たちの反感を買ったのです。今の言葉で評すると、重臣たちは既得権益を侵されたのでした。
重臣たちは結託して忠辰を押込にしました。忠辰は数え29の若さで隠居、その年の内に座敷牢で亡くなります。重臣たちは親戚筋から養子を迎え、御家を存続させました。
バカ殿さまばかりか切れ者過ぎる殿さまも押込に遭ったわけです。やはり、神輿は担ぎやすいのがよかったのですね。
落語に出てくる架空の殿さまに赤井御門守がいます。将軍の息女を正室に迎える大名家は御守殿を設け、門は朱塗りにした赤門でした。赤井御門守は将軍の息女を正室に迎えられるだけの家格だと意味しているのです。石高は12万3,456石7斗8升9合と一掴み半、という落語らしさです。
江戸時代、将軍も殿さまも食膳に饗された鯛を食べる際、一箸しかつけませんでした。一箸だけ食べて下げ渡すのが慣例であったのです。落語では、ある日、赤井御門守が一箸食べてから、「代わりを持て」と命じます。しかし、鯛の用意はありません。
そこで家臣は、「殿、今宵の月は大変に美しゅうござります」と声をかけ、赤井御門守が月を見上げている隙に鯛の表裏をひっくり返しました。御門守は満足します。後日、御門守は三箸目を所望します。困った家臣に向かって、「月を見ていようか」と語りかける、というオチがついています。
凡庸なのか聡明なのかわからない赤井御門守のような殿さまが、家臣や御家にはありがたかったことをこの噺は物語っています。可もなく不可もないリーダーが世の中を治めていた江戸時代は泰平でしたね。戦国、幕末といった動乱の時代になると、そうもいかなくなります。
今の日本はどうでしょうか。
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