自民ベッタリ“肩書”大好き。解体すべき労働者の敵「連合」と芳野友子会長の怪しい正体

 

対立・分裂で離合集散の繰り返しだった日本の労働組合運動

さて、まずは日本の労働組合運動における簡単な歴史と「日本労働組合総連合会」が生まれるまでの経緯をざっとまとめて見ておきましょう。

日本の労働組合運動は、産業が勃興し始めた明治初期からありますが、大正、昭和の時代には、政府による弾圧や厳しい規制の中にありながらも、脈々とその運動が受け継がれてきているものです。

そして、戦後は新憲法によって、ようやく「団結権」「団体交渉権」「団体行動権(ストライキ権)」の労働3権(労働基本権)が認められるに至り、組織としての近代化が図られるようになってきたのでした。

また、敗戦直後のGHQ(連合国軍総司令部)は、労働組合組織の結成は、日本の民主化に役立つと考え、その後押しもあって実際次々労組が生まれた──という背景事情もあったのです。

しかし、それも朝鮮戦争勃発(1950年6月)まででした。

米ソ冷戦が深まると、その後は日本共産党の影響力の及ぶ労組に対しては、GHQはパージや弾圧を強め、日本共産党系労組の弱体化がすすめられるようになったからです(1950年以降のマッカーサーGHQ総司令官によるレッドパージで共産党員やシンパが数千人規模で企業や公職から追われた)。

こうして労組の団体では、支持政党や思想によって、分派や分裂による離合集散が激しくなっていきます。

そして高度成長期においても、組合活動は紆余曲折を辿っていくのでした。

こうした離合集散の動きが、次第に多くの企業別組合から産業別組合へとひろがり、やがて全国組織のナショナルセンターへの集約化が図られてきた──というわけです。

水と油の労組の中央組織が「連合」に大同団結!

そして、官公庁労働者が組織する労働組合の中央組織「日本労働組合総評議会=総評(391万人)」と民間企業の労働組合が組織する「全日本労働総同盟=同盟(210万人)」という2大ナショナルセンターが、「連合」という中央組織内で結ばれ、何とか融和する状況が生まれてきたわけです。

これが、1989年の「連合(日本労働組合総連合会)」の誕生でした。

日本最大級の労働組合組織のナショナルセンターとなったのです(組合員数約700万人弱を擁する、総労働者の1割強を組織する全国団体)。

この「連合」には、前述の通り、合流する前の「総評」が、かつての日本社会党系の労組のナショナルセンターであり、もうひとつの「同盟」はかつての民社党系(1960年に日本社会党を離党した右派の国会議員により結成された政党)の労組のナショナルセンターだったという2大組織が融合しました。

もともと「総評」は、社会党支持の党内左派寄り(自衛隊違憲、日米安保反対、日の丸・君が代反対、脱原発など)の団体でした。

一方でこれに反発して、組合員の離脱で生まれたのが民社党系(自衛隊合憲、日米安保賛成、日の丸・君が代賛成、原発賛成、反共・反社会主義、労使協調路線など)の「同盟(210万人)」という団体でした。

ゆえに、2大ナショナルセンターの「総評」と「同盟」は、本来の主張は「水と油」だったのです。

しかし、それでも、「総評」と「同盟」の2大ナショナルセンターが大同団結して、1989年に「連合」が誕生したのでした。

その際には、「総評」に近かった「新産別(全国産業別労働組合連合・6万6,000人)や、いずれにも属さなかった中道派の「中立労連(中立労働組合連絡会議・75万人)」という2つのナショナルセンターも「連合」に合流しています。

つまり、合計4つのナショナルセンターが合体して、1989年に生まれたのが「連合」だったのです(この時、反共・労使協調を批判して「総評」から離脱した日本共産党系の「全労連・52万人」や日本社会党左派系の「全労協・9万人」も「連合」とは別のナショナルセンターとして誕生しています)。

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