【飲食起業記】大繁盛ラーメン店『町田商店』(その1) 「基礎を学んだサラリーマン時代」

 

『横浜家系ラーメン壱六家』

横浜家系ラーメンというのは、豚骨醤油のスープに太麺。横浜のご当地ラーメンで、1974年に横浜市磯子区で創業した『吉村家』が元祖の横浜で最も勢いのあるジャンルのラーメンでした。

当時、家系御三家と言われていたのは『吉村家』『六角家』『本牧家』だったのですが、僕が惚れたのはそのどれにも属さない亜流と呼ばれていた『壱六家』でした。『壱六家』のスープはクリーミーでコクがあり、一口目から最後まで美味しく食べられる他の家系では感じられない中毒性がありました。

『壱六家』の良さはそれだけではありませんでした。お店の職人さんたちが他の家系のお店のように無愛想でいかにも職人気質で頑固者といった雰囲気ではなく、若々しくみんな勢いがあって接客は丁寧。笑顔で生き生きとして楽しそうに働いているように見えました。

「この店の味と営業力が自分でものにできれば必ず成功する!」

お店に通うごとにそれは確信に変わっていき、まだ絵空事だった計画が現実味が出てきたのはこの頃だったのだと思います。

すっかり常連になり、通いつめていたある日、店長さんから「卒業したらどうするの?」と聞かれ、僕はチャンスと思い「ここで働きたいです」そう告げると「いいじゃん、待ってるよ、まかないで毎日ラーメン食べさせてあげるよ」と言われました。あっけなく修業先が決まった瞬間でした。期待と不安が入り交じって気分が高揚していたのを覚えています。

自由奔放な高校生活を送っていたツケは当然回ってくることになりました。奇跡的に高校3年生までは進学できたのですが、このままだと卒業はできないと先生に告げられました。

「どうせラーメン屋になるのに学歴は必要ない。だったら辞めてやる」と、先生と両親に伝えると、反対をしたのは意外にも父親でした。

「一度途中で物事を投げ出すとまた同じことを繰り返す。ラーメン屋をやるのなら余計に卒業だけはきちんとしなさい。高校を卒業したらもう大人だ、好きにすればいい」

今まで諭されたことのなかった寡黙な父に言われた言葉には重みを感じました。

膨大な課題と追試の嵐で、皆と同じ卒業式には間に合わなかったのですが、3月31日に自分1人だけの卒業式を校長室であげてもらえることができました。2年間のツケを取り戻すのは大変だったけど、卒業したことは今でも本当に良かったと思っています。なんとなくですが、あのまま辞めていたらラーメン屋も途中で逃げ出していたような気がするからです。

あの時、3年間迷惑かけっぱなしの僕に涙を流して喜んでくれた先生方達本当に感謝しています。ありがとうございました。

2001年『壱六家』入社

「最長10年で独立しよう。どんなにできが悪くとも、10年かかれば技術が身につくだろう。10年あれば独立資金を貯められるだろう。10年後ならまだ20代。やり直しがきくだろう」そう期限を決めて3つの目標を立てました。

1) 同じ味が出せる技術を習得する。
2) 1000万以上貯める。
3) 独立パートナーを見つける。

そしてどんな困難があっても今日のこの気持ちを忘れず、必ず夢を実現させよう。

そう決意し『壱六家』への入社日を迎えました。

当時『壱六家』は4店舗で、決して好立地とは呼べない場所でしたが、どのお店も行列ができるラーメン店でした。

僕は、その中でも最も長い行列を作る磯子本店に配属されました。

入社初日、最初に課された仕事はお店に並んでいるお客様13名分の注文を暗記で覚えて、それを店長に間違えずに伝えることでした。メモなどは取ってはいけなくて、最初は何度も聞き直してしまい、怒鳴られることもしばしばありました。

注文を伝えるとすぐに次の13名分の注文を取りに行かなければならなかったので、合計26名分の注文を覚える必要がありました。ただでさえ覚えられない注文なのに、ゆっくり記憶しようとするとお客様を待たせてしまう。ただ覚えるだけでなく、スピードも重要でした。始めはどれだけやっても覚えられるようにならないのではないかと思っていましたが、不思議と数週間である程度覚えられるようになっていきました。

2ヵ月ほどで仕込みや注文をこなせるようになると、最大の難関の麺上げの練習をやらせてもらえることになりました。当時本店は、小分けに麺を茹でられるテボ式のタイプではなく、ひとつの寸胴に13名分の麺をまとめて茹でて一杯ずつ小分けに麺を茹で上げる平ザルを使った非常に高い技術を要するものでした。

見た目以上に難しいこの作業は、いきなりお客様のラーメンをあげられる訳もないので、寸胴に水を張り、そこにタオルを浮かべそれを麺に見立てて練習するところからのスタートでした。

基礎的な動きを教わり、とにかく一日中その動きを反復させました。親指と人差し指のまたが避けて麺ザルが血で染まってゆき、痛くて力が入らず正しい動きができなくなっていきました。

お客様が並んでいるお店の前での練習だったため、恥ずかしい気持ちでいっぱいでしたが、常連さんに「早く習得して俺のラーメンを作ってくれよ!」と言われたのにとても励まされたのを覚えています。

10日間ほどのタオル練習を経て、ようやくお客様の麺をあげるチャンスをもらえたのですが、最初は全くうまくいきませんでした。上げるスピードが遅いと麺はどんどん茹で上がってしまい提供できなくなる。そして13名分の麺をまとめて揚げると。1名様あたり3、4本麺が少なくあげてしまうだけで、最後には1玉ほども余ってしまうことになり、いかに精密でなくてはならないということに気づかされました。

そして失敗してお客様に提供することができなかったり、麺を余らせてしまったらその麺を全て自分で食べなくてはいけないというルールがあり、多い日は8玉食べることもありました。

一見いじめにも見える風習のようでしたが、いかなる時も食材を粗末にしてはいけないという『壱六家』の食べ物を大切にする想いが込められた文化を学びました。

怒られてばかりの毎日でしたが、仕事が大変なほど夢に向かって確実に近づいているような気がして、毎日がとても充実していました。

3ヵ月ほど過ぎた頃初めての後輩が入社してきました。自分より7つ年上の26歳の飲食経験者。のりあきという名前だったので、僕はあきちゃんと呼ぶことにしました。上下関係が厳しく、超縦社会の会社だったため、先輩から「年上だからってなめられんじゃないぞ」と言われ、その言葉を勘違いして、あきちゃんに対して初日からタメ口で「俺、翔っていうからよろしく! わからないことがあったら何でも聞いてよ!」みたいなノリでかなり生意気な口をきいていました。

3ヵ月の中、僕も急スピードで成長してはいましたが、6年飲食経験のあるあきちゃんは、みるみる仕事を覚え、1週間で完全に追いつかれてしまいました。そして「まだその仕事できないの?」とか「包丁使うの遅いよね」などと気づくと完全になめられていました。

そして決定的な事件が起きました。店長と僕とあきちゃんで午前中仕込みをしている時、店長が「ちょっと銀行に行ってくるからその間のりあき、店よろしく頼むな!」と言ったのです。先輩の僕に頼まず、後輩のあきちゃんに頼んだということはもう完全に仕事において追い抜かれてしまったんだ、と解釈し、「このままではいけない、もっと自分を成長ステージに行かなくては!」と環境を変える決意をしたのです。

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