「復讐心」こそが火種。どれだけ文明が発達しても世界から「戦争」が無くならない理由

 

で、安康(あんこう)天皇3年(456年)のこと、当時の安康天皇が、この人妻である中蒂姫命に横恋慕しちゃう。当時の天皇は『ギリシャ神話』のゼウスみたいな絶対権力者だから、人妻だろうがヨソの国の姫だろうが美少年だろうがお構いなし。欲しいものはどんな手段を使っても手に入れる。それで、大草香皇子を殺して中蒂姫命を自分の妻、つまり皇后にしちゃう。当然、子どもの眉輪王も着いてくる。でも、眉輪王は幼かったから、安康天皇を自分の父だと思い込んで成長する。

そんなある日のこと、安康天皇が自分の本当の父を殺して、母を略奪して皇后にしたという事実を知ってしまう。当時7歳の眉輪王は怒りに燃え、寝ていた安康天皇の胸に剣を突き立てて殺してしまった。眉輪王としては、自分の父の仇を討っただけなんだけど、当時の状況的には「皇后の連れ子が皇位を狙って天皇を暗殺した」と見られちゃう。そして眉輪王は、安康天皇の配下の者たちに、『古事記』だと刺殺され、『日本書紀』だと焼き殺される。眉輪王は殺される前に「私は皇位を狙ったわけではない!父の仇を討っただけだ!」と釈明してる。つまり、完全なる復讐劇だったわけだ。

でも「復讐」の歴史は遥かに古い。昭和38年(1963年)から翌年にかけて、5人を殺害した「西口彰事件」を題材にした佐木隆三の直木賞受賞作『復讐するは我にあり』は、テレビドラマや映画にもなったので題名くらいは知ってる人も多いと思う。これは、犯人の西口彰が熱心なクリスチャンだったという事実から、『新約聖書』の中の文言をタイトルにしたものだ。『新約聖書』の「ローマ人への手紙」の中に、次の一節がある。

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。」

つまり「誰かからどれほど酷いことをされても、決して自分で復讐してはいけない。神様が『復讐は私がやるから』と言ってくださっている」という教えだ。今の世界を見渡しても、ロシアのプーチンにもイスラエルのネタニヤフにも天罰が下ってないので、これは小池百合子の公約「12のゼロ」と同じく「やるやる詐欺」っぽいけど、「憎しみの連鎖」を生み出さないための方便としては百点満点の教えと言える。

…そんなわけで、江戸時代の庶民の楽しみの1つ、歌舞伎や浄瑠璃を始めとしたお芝居の人気の演目と言えば、心中や刃傷沙汰などの男女の色恋モノと、やっぱり復讐劇が二大看板だった。日本の「復讐」と言えば、明治以降は「敵討ち(かたきうち)」という言葉が使われるようになったけど、江戸時代までは「仇討ち(あだうち)」と呼ばれてて、幕府も制度化してた。武士が自分の主君の仇を討ったり、娘が父の仇を討ったり、庶民はこういうストーリーが大好きだった。

恐ろしい怪談にしても、『番町皿屋敷』しかり『四谷怪談』しかり、理不尽に殺された女が幽霊になって復讐するという話だ。落語にも『花見の仇討』『宿屋の仇討』『高田馬場』など「仇討ち」を面白おかしく題材にした演目がいろいろあるし、中には可愛がってた黒猫が主人の仇討ちをするという『猫定(ねこさだ)』なんていう変わり種の噺もある。

池波正太郎の小説『仕掛人・藤枝梅安』を原作としたテレビドラマ『必殺仕掛人』や『必殺仕置人』のシリーズは、自分で復讐する力のない市井の人々が、自分の代わりに「暗殺のプロ」に金銭で復讐を依頼するというストーリーだ。小説でもドラマでも、相手がどれほどの悪党なのか、どれだけ酷いことをしたのかがタップリと前フリされてるから、最後に「暗殺のプロ」たちがトドメを刺した瞬間、あたしたちは胸がスカッとする。殺人なのに。

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