「復讐心」こそが火種。どれだけ文明が発達しても世界から「戦争」が無くならない理由

 

映画でも『マッドマックス』や『レオン』や『キル・ビル』や『ジョン・ウィック』を始め、復讐劇は山のようにある。最近だと、男2人にレイプされた上に崖から突き落とされた美女が、ボロボロになりながら男2人を追い詰めて殺すという壮絶な復讐劇、その名も『リベンジ』という映画もあった。さかのぼれば、あたしが生まれる前の西部劇も、その多くは復讐劇だし、それは邦画にも言える。こないだ『大怪獣ガメラ』の流れから軽く触れた『大魔神』だって、全体のストーリーは復讐劇だ。

…ってなわけで、チョチョンチョンチョンチョ~~~ン!(拍子木の音)

時は寛永7年(1630年)、第3代将軍徳川家光の時代、岡山藩主の池田忠雄(いけだ ただかつ)は、別に男色一直線てわけでもなかったけど、美少年には目がなくて、渡辺源太夫っていう17歳の美少年を囲ってた。これを俗に「寵童(ちょうどう)」って言うんだけど、ようするに、夜の相手をさせるために囲ってる少年というわけで、戦国時代から江戸時代の中期にかけては普通のことだった。

以前、谷崎潤一郎の短編『二人の稚児』を取り上げた時に詳しく書いたけど、古くは寺院などの少年修行僧のことを「稚児(ちご)」と呼んでた。でも、女人禁制の寺院の僧侶たちは、そんな少年修行僧の中から自分の好みの少年を選び、夜の相手をさせるようになった。そのうち、元服前の剃髪してない少年をスカウトして来て、女装させて夜の相手をさせるようになった。そんな流れから「男色相手の少年」のことを「稚児」と呼ぶようになった。

この寺院における「稚児」に当たるのが、武家の場合は「寵童」というわけだ。でも、武家は別に女人禁制じゃないから、将軍の多くは正室(妻)だけでなく側室(愛人)も抱えてた。じゃあ何で「寵童」が必要なのかというと、いくら将軍と言えども戦に妻や愛人を同伴するわけには行かない。そこで将軍の多くは、自分のお気に入りの美少年を「小姓(こしょう)」として雇ってた。小姓とは戦地などの出先で将軍の身の回りの世話をする家来のことだ。

戦国時代から江戸時代中期にかけて多くの武将は、正室や側室とは別に、お気に入りの美少年を小姓の名目で雇い、寵童として囲ってるのが普通だった。武田信玄の囲ってた高坂弾正(こうさか だんじょう)や、織田信長の囲ってた森蘭丸(もり らんまる)なんかが有名だと思う。明治時代になって西洋文化が入って来るまでは、日本では男性が男性に身体を売る男娼は当たり前で、歌舞伎の女形も客に身体を売っていた。一般の男娼は「陰間(かげま)」と呼ばれ、町には男娼を専門に扱う「陰間茶屋」もあった。

…そんなわけで、岡山藩主の池田忠雄は、寵童の渡辺源太夫を溺愛してた。それは、女性以上に美しい美少年だったからだ。だけど、源太夫はあまりにも美しかったために、もともとソッチのケがあった武士からも目をつけられまくってた。その中の1人が、池田忠雄の部下、岡山藩士の河合又五郎だった。又五郎はまだ19歳だったんだけど、源太夫の美しさにひと目惚れしちゃって、来る日も来る日も源太夫のことを思って悶々としてた。

今で言えば、新入社員が社長の愛人を好きになっちゃったみたいな感じで、それも相手が同性だったんだから、ビートルズ的にはなかなかのハード・デイズ・ナイトだっただろう。だけど、どうしてもガマンできなくなった又五郎は、2月14日の「バレンタインデー」でもなく、3月14日の「ホワイトデー」でもなく、寛永7年7月11日の「セブンイレブンの日」に、自分の立場も身分も考えずに、とうとう源太夫に告白しちゃったのだ!それも激しく!

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