「復讐心」こそが火種。どれだけ文明が発達しても世界から「戦争」が無くならない理由

 

結局、残ったのは、数馬チームの3人と、仇の又五郎だけになった。こうなれば、もう仇討ちは達せられたようなもんだけど、実際にはここからが大変だった。仇討ちってのは、本人が斬らなきゃ意味がないから、剣豪の又右衛門なら一太刀で片づけちゃうとこなのに、剣の腕前がカラッキシの数馬は、なかなか又五郎を倒すことができない。

一応、数馬のほうが斬られないように、又右衛門と門弟の孫右衛門が周りでフォローしつつも、1対1の勝負だから、そうそう横から手助けするわけにも行かない。そのため、決定打の出ないダラダラした勝負が延々と続き、なんと開始から5時間も経過したとこで、ようやく数馬の太刀が又五郎に浅い傷を負わせた。そして、それを見た又右衛門がすかさずトドメを刺し、とうとう念願の仇討ちを成し遂げたってわけだ。

…そんなわけで、これが有名な「鍵屋の辻の仇討ち」で、「鍵屋の辻の決闘」とも「伊賀越えの仇討ち」とも呼ばれてる史実だ。でも、数馬の助太刀をした剣豪の荒木又右衛門の「三十六人斬り」は、あとから盛りに盛った創作だ。相手は全員で11人なんだから、仮に又右衛門が1人で相手全員を斬ってたとしても「十一人斬り」なわけだし、実際には相手の多くが逃げちゃって、又右衛門は2人しか斬ってない。

だけど、この仇討ちは、柳生十兵衛と同門で柳生新陰流の免許皆伝だった荒木又右衛門の大活躍こそが「ストーリーの山場」だから、あとから歌舞伎や浄瑠璃の演目とかになるたびに、どんどん演出がエスカレートしてって、最後には又右衛門が1人で36人も斬り殺したことになっちゃったのだ。

さらには、近代の映画やテレビドラマになると、仇討ちのもともとのキッカケまで勝手に書き換えちゃったものまで作られるようになった。実際には「美少年の渡辺源太夫を好きになった河合又五郎がフラれて逆ギレして斬っちゃった」ってのがコトの発端なのに、こうした「男色の横恋慕」ってのが、同性愛を嫌悪する日本会議や統一教会をバックに付けた自民党政権下では「教育上よろしくない」と考えられるようになったからなのか、「源太夫が又五郎を侮辱したために斬られた」っていう波風の立たない内容に変えられてる作品も多い。

とにかく、当時は幕府が仇討ちを美徳として世間に推奨してた時代だから、こうした実際の仇討ちが美しい物語として脚色されて、歌舞伎や浄瑠璃などのお芝居の演目になり、庶民の娯楽になってた。この「鍵屋の辻の仇討ち」は、70年後の元禄15年(1703年)に「赤穂浪士の討ち入り」が行なわれるまでは、日本一有名な仇討ちとして、数え切れないほど上演されて来た。

何でかって言うと、この「鍵屋の辻の仇討ち」が行なわれるまでは、日本一有名な仇討ちは建久4年(1193年)の「曾我兄弟の仇討ち」だったからだ。いくら有名とは言え、500年も前に行なわれた仇討ちのお芝居なんて、当時の人たちにしても「時代劇」みたいもんで、現実味が薄かったと思う。そんなとこに登場した「鍵屋の辻の仇討ち」は、思いっきり臨場感にあふれた「現代劇」として、多くの人々に受け入れられたんだろう。

…そんなわけで、「鍵屋の辻の仇討ち」に続いて「赤穂浪士の討ち入り」も「忠臣蔵」として歌舞伎や浄瑠璃などの演目となり、江戸の人々は「仇討ち」という「復讐劇」に夢中になって行った。演出によって善と悪とが明確に描き分けられているだけでなく、幕府公認という大義名分が、殺人を美徳として大衆の娯楽にするには十分すぎる裏打ちとなった。

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