「復讐心」こそが火種。どれだけ文明が発達しても世界から「戦争」が無くならない理由

 

たとえば「ボクは君のことを好きになってしまった。もちろん君が藩主の池田様の大切な人だってことは分かってる。でも、どうしても君のことが好きなんだ。どうか一度だけでも、池田様に見つからないようにデートしてくれないか?」的な感じの告白ならオオゴトにならずに済んだかもしれない。それなのに、嗚呼それなのに、それなのに…、完全に舞い上がってた又五郎は「オレはお前のことが好きだーー!!オレのものになってくれーー!!」って叫んで、その場で押し倒しちゃったのだ!

こんなことされたら、美少年に限らず、男でも女でも猫でも犬でも誰だって拒絶しちゃうよね。当然、源太夫も、襲い掛かってきた又五郎のことを拒絶した。そしたら、頭に血が上ってた又五郎は、自分の強引なアプローチに問題があったってことが理解できずに、自分の切ない純愛を拒絶されたって思い込んじゃって、ナナナナナント!その場で刀を抜いて源太夫を斬り殺しちゃったのだ!

テレビで見てるだけのアイドルや女子アナに一方的に恋をして、あまりにも好きになりすぎて、相手が自分の存在すら知らないってことが分からずに、まるで恋人みたいな口調のメールや手紙を送り続けた上、どこかで待ち伏せして強硬手段に出ちゃう異常で危ないファン、これとおんなじだ。

…そんなわけで、自分の会社の社長の愛人に横恋慕した挙句、自分の激しい愛を拒絶されて叩き斬っちゃった又五郎は、そのまま会社にいられるわけがない。百歩ゆずっても切腹、普通なら拷問の果ての死罪だ。だから当然の流れとして、又五郎は大慌てで岡山藩を脱藩してバックレた。又五郎が逃げた先は、江戸の旗本の安藤次右衛門のとこだった。

でも、あしたのジョー…じゃなくて、ハタ坊だじょ~・・じゃなくて、オダギリジョー…じゃなくて、案の定、又五郎の潜伏先は秒でバレちゃった。愛する源太夫を殺されて怒り心頭の池田忠雄は、又五郎の身柄を渡すようにと安藤次右衛門に要求した。だけど安藤次右衛門は、その要求を突っぱねた。そして、これが大名(池田忠雄)と旗本(安藤次右衛門)とのメンツを懸けた争いに発展しちゃった。

幕府が間に入って収めようとしたんだけど、両者の意地の張り合いは加熱するばかり…と思ったのもトコノマ、この大きくなりすぎた争いの渦中で、誰よりも一番カッカと頭に血が上ってた池田忠雄が、31歳の若さで天然痘で亡くなっちゃったのだ。源太夫が殺されてから2年後、寛永9年(1632年)4月3日のことだった。

普通に考えたら、一番怒ってた池田忠雄が亡くなっちゃったんだから、この争いは自然にフェードアウトしそうなもんだけど、ところがドッコイ、そうも行かなかった。何でかって言うと、あまりにも源太夫のことを溺愛してた池田忠雄は、死の間際、自分の家臣たちに向かって、こんな言葉を遺したからだ。

「どんな手段を使っても、あの憎き又五郎の首を我が墓前に捧げよ!」

藩主にこんな遺言を遺されちゃった日にゃあ…って猫みたいな言い方をしちゃったけど、周りの者はスルーできないだろう。それで、殺された源太夫の兄、渡辺数馬が仇討ちをすることになった。普通、仇討ちってのは、藩主を殺された藩士だったり、親を殺された息子だったり、兄を殺された弟だったりってふうに、目上の者を殺された場合に行なうものだ。

何でかって言うと、この仇討ちっていうシステムは、目上の者へのリスペクトが基本の中国の「儒教」からの流れだからだ。中国の『周礼』や『礼記』などの古典には「仇討ちこそが一族、家臣の義務である」って書かれてる。つまり、自分の親や主人を殺された者は、その相手に復讐することが義務だったのだ。

この記事の著者・きっこさんのメルマガ

初月無料で読む

print
いま読まれてます

  • 「復讐心」こそが火種。どれだけ文明が発達しても世界から「戦争」が無くならない理由
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け