しば漬けに秘められた哀しい物語。京都三大漬物の歴史を紐解く

 

しば漬け

しば漬けの歴史は古く、はるか平安時代末期まで遡ります。当時、源氏と平氏が戦っていて、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡しました。平家が隆盛を極めた時代は、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われた時もありました。

平家が滅亡した時、平清盛の娘、建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)は高倉天皇に嫁いで皇后という立場でした。建礼門院は、幼子の安徳天皇に、海の底にも華やかな竜宮城というお城があることを話したといいます。そして、母・時子(平清盛の妻)と3人で壇ノ浦の海へ入水したのです。

安徳天皇は子供なので、すぐに溺れて亡くなってしまいました。しかし、建礼門院だけは時の帝・高倉天皇の皇后だったこともあり、敵方の源氏の武士に助けられ都に送られました。その後、建礼門院は剃髪となり、都から人里離れた大原にある聖徳太子が建てた尼寺・寂光院に身を寄せました。

余生は、滅亡した平家一族と亡き幼い我が子を思いながら1人寂しく暮らした様子は「平家物語」にも書かれています。地元大原の人達は、かつて皇后だった建礼門院に少しでも御所での高貴な日々を思い出してもらおうと色々考えました。この地に古くから保存食として作られてきた紫の紫蘇しその葉漬け物献上しました。紫色は皇室でも最も高い位の身分の人が身につけることの出来る色です。建礼門院はこの紫色をたいそう喜び、紫葉むらさきは漬けと名付けたそうです。それ以降、紫葉(しば)漬けの名が定着したといいます。

また、大原は昔から、柴や薪を頭に乗せて売り歩く「大原女」(おはらめ)で有名な場所です。柴の産地でもあることから、柴漬けとも書き表されることもあるようです。しば漬けの里、大原は800年以上経った今も年に1度、紫蘇の葉で見渡す限り赤紫色に染まる時期があります。その光景は大原の里人の昔から変わらぬ優しさと、寂しい余生を送っていた建礼門院の心に火が灯った瞬間を想い起こさせてくれます。

しば漬けは、やはりこの地に本店を持つ創業明治34年の老舗「土井志ば漬け本舗」が有名です。

平清盛の娘として生を受け、天皇に嫁ぎ皇后として過ごした建礼門院は、何不自由なく華やかな人生を終えるはずだったでしょう。しかし、父をはじめ一族は壇ノ浦で滅亡し、幼子と共に入水するも自らは助けられ、その後1人で孤独な人生を送りました。そして亡くなった後も、不幸にも建礼門院は1人寂しく寂光院の側で眠っています。夫である高倉天皇の御陵(お墓)は、清水寺の近くにある清閑寺(せいかんじ)付近にあります。

生前、高倉天皇は小督局(こごうのつぼね)という女性を寵愛していました。このことは建礼門院の父、平清盛の逆鱗に触れ、小督局は清閑寺に出家させられ、この地で生涯を閉じることになります。高倉天皇は遺言により、(皇后・建礼門院ではなく)小督局の墓所近くに葬られ、800年以上経った今も2人並んで眠っています。

しば漬けを食べる時は、1人寂しくしているであろう建礼門院徳子の事が頭をよぎります。

そのような思いからなのでしょうか、京都御所の正門で今でも天皇陛下だけしか通ることが許されない門の名は建礼門といいます。あまりにも寂しい建礼門院の生涯を慰めるべく皇室の配慮なのかも知れません。

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