昭和を動かした伝説の暗黒プロデューサー・康芳夫がMAG2NEWSに再降臨。今回は伝説のボクサー、モハメド・アリとの出会いを描きます。当時、既に歴史的ボクサーとして知られていたモハメド・アリをどうやって来日させたのか? 世紀の異種格闘技戦と言われるアリ対猪木戦はいかにして実現したのか? アリを日本に招聘した張本人である康芳夫がそのウラ話を語ります。
カシアス・クレイ
カシアス・クレイ−−−現在のモハメド・アリ。私が彼の試合を初めて見たのは昭和三十九年二月二十五日、マイアミのコンべンションホールで行なわれた対ソニー・リストン戦のテレビ中継である。
この試合にクレイが勝って、彼は世界へビー級のチャンピオンになった。
第六ラウンド、クレイはあらゆる角度からパンチを出してリストンを攻撃した。リストンの顔面は血だらけで、すでに戦意を喪失しているのは明らかだったが、クレイは容赦なくパンチを浴びせていた。凄惨を通り越してグロテスクな試合だった。
そしてゴング。だが、第七ラウンドの開始のゴングが鳴っても、リストンはついにコーナーの椅子から立てなかった。瞳は虚ろで、何ものをも見てない眼だった。
二十一歳、プロ入り後、わずかに十九戦のキャリアしかなかったクレイ。一方のソニー・リストンは、前年七月、チャンピオンのフロイド・パターソンを一回二分十八秒でノックアウトし、”不敗の男”というニックネームを奪い取っていた。
試合後、クレイが勝つと見ていたものはほとんどいなかった。
「クレイは十八秒は持つだろう。もっとも、コーナーからリング中央に進み出る三秒も勘定に入れてだがね」と言うジャッキー・グリースンの冗談を冗談と思う者はいなかったし、“褐色の弾丸”ジョー・ルイスは、「クレイはなぶりものにされる」と真剣に心配していた。
テイビー・ムーアが対シュガー・ラモス戦で負った傷がもとで死亡した事件を操作中だったカリフォルニア州検事・ソル・シルバーマンは、 こう述べていた。
「プロボクシング界に、さらに不祥事を起こしてはならないということを銘記すべきである。今、行なわれようとしているクレイ、リストンのへビー級タイトル・マッチは危険な不釣合試合である。結果的には、若い挑戦者(クレイのこと)は深刻な負傷を負うことになるであろう」
力ケ率は七対一。全米四十六人のボクシング記者のうち、四十三人が、「クレイはリングから歩るいて帰ることはできまい」と予測していた。
もちろん、クレイは黙っていたわけではない。
「あいつは老人だよ。あいつにしゃべり方とボクシングのやり方の両方を教えてやるつもりだ。あいつに、とくに必要なのは倒れ方の勉強だ」
などとリストンを怒らせるようなことをわざと叫び、いつもどおり、KOラウンドの予告さえやっていた。
「第八ラウンドにおれの偉大さを証明する」