銀閣寺が建てられた経緯
義政は東山にあった浄土寺という寺の墓地を没収し無断でこの地に東山殿(現在の銀閣寺)を造営したと言われています。造営のために民衆に多額の臨時税を課しそれを財源として東山殿の造営に暴走したようです。義政が将軍として生きた時代は室町幕府の権力が衰退すると同時に地方の武士が台頭し情勢が不安定な時期でした。何をやってもうまくいかない義政は気の休まる東山殿という別荘を創建するために突き進んでいくのでした。しかし、戦乱と大飢饉で資金は集まらなかったので、京都や奈良の寺社などから優れた石や樹木を略奪したとも伝わっています。
京都だけでも、等持院から大量の松、東寺から大量の蓮、室町殿から松、金閣寺から庭石、仙洞御所からも石を略奪したとのこと。もう何が何でも東山殿を建てるという思いが伝わってきます。造営された経緯がそのようなものだったので、現存する建物は銀閣と東求堂しか残っていません。なぜなら、義政の死後、略奪されたものを持ち主が取り返しにきたからです。他人の者を略奪して素晴らしい別荘を建てても、跡形もなくなってしまうのは当然ですよね。
義政は、夢想疎石(むそうそせき)が建てた苔寺(西芳寺)に憧れていました。夢想疎石は禅僧でありながら、天龍寺の曹源池(そうげんち)庭園なども造営した天下の名作庭家としても知られています。銀閣寺は苔寺を模倣して造営されたと伝わっています。下段を池泉回遊式庭園、上段を枯山水庭園とし両脇が植栽の壁で覆われていて途中で直角に曲がる参道などは同じ様式となっています。
義政が銀閣寺で詠んだ和歌に次のようなものがあります。
「くやしくぞ 過ぎしうき世を 今日ぞ思ふ 心くまなき 月をながめて」
和歌というのは美しい自然を愛でたり、愛する人への思いを慕うような幻想的な情景や憧憬を詠んだものが一般的です。しかし、この歌は現実に打ち勝つことが出来ず、月へ逃避したいとの思いが込められた強い悔しさがにじみ出ているのを感じます。
銀閣の正面の山を月待山といいます。義満はこの山から昇る一瞬の月の出を愛でたことでしょう。