せめて来世で幸せに。なぜ浄土宗は庶民に爆発的に広がったのか

 

浄土教が現れたことで庶民の間では浄土信仰一色になっていきます。もちろん貴族たちもこぞって阿弥陀如来を本尊とした寺院を建立しました。極楽浄土をこの世に再現させた例としてあまりにも有名なのが10円玉にも刻印されている宇治の平等院鳳凰堂です。あまり知られていませんが、京都の南、奈良との県境付近にある加茂町の浄瑠璃寺という寺院も同じ目的で建てられました。平等院は貴族によって造られたものですが、浄瑠璃寺は地元の豪族と民衆の寄付によって建てられたものだそうです。京都以外の例だと、岩手県の平泉にある中尊寺などがあります。

当時、この浄土信仰を広めたとされているのは比叡山の僧・源信(げんしん)でした。そのため浄土信仰は浄土教として広まっていきました。その後、平安末期になると、のちの浄土宗の開祖となる法然(ほうねん)が浄土教の研究に努めるようになります。法然は、阿弥陀如来がいるとされる極楽浄土に往生するためには、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えることを説きました。そうすれば、阿弥陀様は必ず迎えに来てくれるという確信を得られるようになるとの教えです。これが、鎌倉時代以降浄土宗として広まり今日に伝えられることになりました。

法然の教えは当時の民衆にとってはとても画期的なものでした。厳しい修行をしたり、難しいお経を読んだりしなくてもいいのです。「南無阿弥陀仏と唱え続ければ極楽に往生できるという新しい思想はとても新しいものでした。そして、それはそれまでの仏教の常識をくつがえす過激ともいえるものでした。

しかし、その後もっと過激な思想と共に現れたのが浄土真宗でした。浄土真宗の開祖・親鸞しんらんは法然の弟子です。親鸞は、ダメな人間も罪を犯す悪人も阿弥陀様は救いの手を差し伸べて極楽に迎えてくれると説きました。妻帯も肉食も認め、自らもそのような生活を送った親鸞の思想は権力者を脅かすほど当時は過激な思想でした。

しかし、この二人が打ち立てた思想によって、仏教はそれまで貴族だけのものだったのが完全に民衆のものになっていきます。宗教そのものが庶民のレベルに浸透していったといっても過言ではないでしょう。平安時代が終わり武士の世、鎌倉時代になると、このような新しい仏教が発達していきます。そしてそれらは、広く民衆を救済するものへと変化していく画期的な転機となったのです。

この時代は、時宗、臨済宗、曹洞宗などの新仏教も広まっていきます。臨済宗の京都最古の禅寺である建仁寺などもはじめは50年も都の中心に本山を構えることが許されなかったと言います。政治を司る権力者が皇族(貴族)から武士に移り変わる激動の時代に、人々の思想が多様化していったのです。社会が不安定化する局面で新仏教が発展していったのはある意味自然な出来事だったのかも知れません。

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