昭和の日に考えたい、激動の時代を支えた昭和天皇の「直き心」

 

よもの海みなはらからと思ふ世に

戦前の「精神のバブルに抗する昭和天皇のもっとも悲痛なメッセージが、対米開戦を議する御前会議において、あくまで平和交渉を優先すべきとして、次の明治天皇の御製(お歌)「四海兄弟」を読み上げられたことであろう。

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

(四方の海はみな同胞と思っているのに、どうして波風が立ち騒ぐのだろうか)

「世界の一等国」などと国際社会を対立的・競争的に捉えて、威勢を張るのではなく、他国民にも同胞意識を持って接するのが、「和らげ調えてしろしめす」道であった。

終戦の際には、内閣の意見がまとまらず、昭和天皇の御聖断を仰いだ。その時のお気持ちを次のように詠われている。

爆撃にたふれゆく民のうえをおもひいくさとめけり身はいかならむとも

「身はいかならむとも」。国民の安寧のために尽くすのが歴代天皇の使命であった。ここにも「平らけくしろしめせ」という、天照大神の御神勅が息づいている。

「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代」

終戦後、昭和天皇が始められたのは、国民を見舞い励ますための御巡幸であった。沖縄以外の全国、3万3,000キロの行程を約8年半かけて回られた。立ち寄られた箇所は1,411カ所に及び、奉迎者の総数は数千万人に達したと思われる。原爆の惨禍の残る広島では、こう詠まれた。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなおる見えてうれしかりけり

平和の鐘が鳴り、復興に励む国民の姿に「和らげ調えてしろしめす」という道の実現を見て、喜ばれたのである。

「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代」とは、「精神のバブル」によって昭和天皇の「和らげ調えてしろしめす」志に反して大戦争に突入し、戦後はその御心に沿って世界史に残る復興を遂げた時代であった。

「直き心」

国家を「和らげ調え」るためには、国民一人ひとりが直(なお)き心」を持たなくてはならない。他人を押しのけても自分だけ豊かになりたい、とか、競争に勝つためには手段を選ばない、というようなとげとげしい心では、社会の波風はおさまらない。

自分のことよりも周囲の人々への思いやりを大切にする、とか、多少遠回りになっても正しい道を歩んで行こう、という心持ちを多くの国民が持つときに、国は「和らげ調え」られる。

このように国内を「和らげ調えてしろしめす」ために、天皇は国民の安寧をひたすらに祈る直き心の体現者でなければならない、というのが、皇室の伝統であった。古来から天皇の持つ「直き心」を「大御心」と呼んだ。

昭和20年9月27日、昭和天皇は占領軍司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります」と述べた上で、こう語られた。

戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合せである。
(『奥村元外務次官談話記録』)

これを聞いたマッカーサーは、次のように反応したという。

それまで姿勢を変えなかった元帥が、やおら立上って陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして御手を握り、「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの時は、元帥自ら出口までお見送りの礼をとったのである。

昭和天皇の直き心マッカーサーの心を揺り動かしたのである。

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